蛇果─hebiichigo─

是我有病。

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ぶらり上環・歩いて観る『孫文の義士団/十月围城』。




そもそものはじまりは7年前。画像検索をしていて『孫文の義士団/十月围城』のプレスシートらしき書類を拾ったことでした。
PDFファイルの情報をみると、「2010年10月31日日曜日19時21分に保存」となっています。
その4日前、10月27日(水)に東京都写真美術館ホールへ『ボディガード&アサシンズ』(「2010東京・中国映画週間」上映時の邦題)を観に行って感想文を書いています。日本での一般公開は決まっていたもののまだまだ先で、その前にこの映画の情報を少しでも集めようと鬼のようになっていた時期でした。一部を抜粋しますと、ざっとこんなかんじです。
(※クリックすると大きくなります)






テキストはすべて英文です。日本公開時に翻訳されたものが映画関係の方に配布されたのかどうか、映画関係者ではないのでよくわかりません。ちゃんと読もうと思っているうちに雑事に取り紛れ、年が明けて3月には東日本大震災が起きたりもし、結局PCの胡軍さんフォルダにぶっ込んだまま、いつしかその存在を忘却してしまっていました。
今年の春先に「そうだ香港行こう」と唐突に思い立ち、そうして思い出したのです。そういや地図があったじゃないの、と。
プレスシート(らしき書類)には、孫文が香港に着いてから香港を去るまでの移動ルートと思しきものを記した地図が載っていました(メイキング映像の背景に使用されているので、ご記憶の方もいらっしゃるかも)。




右上に「CITY OF VICTORIA HONG KONG 1905」とありますが、孫文が香港を訪れたのは1906年のこと。埋め立てによって海岸線の形がだいぶん変わった香港島ですが、この地図では干諾道(Connaught Road)の向こうがすぐ海で、いくつかの桟橋が海へと突き出ています。
右下、人力車のイラストがあるところがスタート地点でしょうか。赤い矢印が上に向かって伸びています。
はたしてこれが本当に、映画のなかで1906年10月、孫文を護って義士団の面々が走り抜けたコースなのかどうかもわかりません。でもどうせ香港行ったら一度は上環をぶらぶらするんだから、だったらこの地図のとおりに歩いてみるのもおもしろいかも、と思いました。南北を逆にして、通りの名称を手がかりに現在の地図と突き合わせてみたところ、下の地図の破線のようなコースになりました。




まずは海港政府大樓(Harbour Building)の近くまで行き、歩道橋を使って干諾道中(Connaught Road Central)を越え、永和街(Wing Wo Street)に入ってみました。

wingwostreet.jpg
永和街をまっすぐ、徳輔道中(Des Voeux Road Central)を横断して更に進むと、皇后大道中(Queen’s Road Central)にぶつかります。映画のなかで、孫文を乗せた阿四(謝霆鋒)たちの曳く人力車が最初に清朝暗殺団の攻撃に曝される回廊のあるメイン・ストリートが、おそらくはこの皇后大道中です。
皇后大道中を左へ進み、進行方向右手の雲威街(Wyndham Street)に入ります。

queensroad.jpg

日本公開時のプログラムのプロダクションノートに掲載された略図には、その手前を左折したところに輔仁文社があるとあります。

IMG_7945.jpg

映画では、この輔仁文社で孫文は13省の代表たちと会合を持ち、孫文に扮した囮役の李重光(王柏傑)が入れ替わりに街へ出て清朝暗殺団をひきつけながら時間を稼ぐ、ということになっています。下の画像の左上に「輔仁文社」の看板が掲げられています。

輔仁文社2.jpg

しかしこちらによれば輔仁文社は百子里にあったという。その旧跡が残る百子里公園は荷李活道(Hollywood Road)と結志街(Gage Street)の間に位置し、略図の場所とは違う。

百子里公園.jpg

同様に中國日報の場所も、士丹利街(Stanley Street)にある陸羽茶室がその跡といわれているのに、略図では威霊頓街(Wellington Street)と徳己立街(Dagular Street)の交差するあたりになっています。どうなんでしょうかこのへんは。
ともかく皇后大道中から雲威街を上がり、威霊頓街に入ります。プレスシートの劉公子(黎明)のキャラクター紹介(上掲)に、

3:37pm
Wellington Street
Guarding the entrance of a street against the attack of several dozens assassins.


とあって、どうも劉公子がこの威霊頓街で清朝暗殺団を迎え撃ったかの如くです。てことはそこらへんに孫文のお母さんのおうちがあった筈ですが、劇中に出てくる地図がかなりアバウトなもんですから



ぜんぜん特定ができません。
そもそも映画では午前10時に囮の李重光を乗せた人力車が輔仁文社を出発して1時間持ちこたえるという設定なのに、劉公子が午後3時37分まで生きているのも変じゃないですか。



どうもなんだかこのプレスシートに書いてある時間や場所や人物の記録については、鵜呑みにしないほうがよいんじゃないか。
と思うとルートマップだってどこまであてになるかわからない。
そんなことは帰国して記事書く段になって気づいたことで、2017年6月16日の私は引き続き上環あたりをぶらぶらしています。

威霊頓街を歩いていくと、擺花街(Lyndhurst Terrace)と砵典乍街(Potting Street)が合流して三叉路になっているところに来ます。

lyndhurst.jpg
砵典乍街(上図右)を上り、荷李活道(Hollywood Road)に突き当たったら右折して、しばらく歩きますと、鴨巴甸街(Aberdeen Street)に出ます。

hollywood.jpg

鴨巴甸街を右折。
少し歩いて結志街(Gage Street)に入っていきます。

gage1.jpg
ちなみに阿四こと謝霆鋒/ニコラス・ツェーさん経営のクッキーショップ「鋒味 by Beyond Desert」が結志街に入る角んとこにあります(百子里公園の地図参照)。「え、こんなところにッ!?」と帰国してから歯噛みをしました。香港まで出掛けていって『孫文の義士団』ゆかりの地を巡ってるくせになんでここで阿四のてづくりクッキーをみやげに買わん!? 阿四じゃないですけど。まことこのあたりは盆暗のきわみでございます。

「鋒味 by Beyond Desert」に微塵も気づかぬまま、通りというよりも市場みたいな趣の結志街を歩いていくと、行く手に有名な茶餐廳・蘭芳園があります。お茶を飲んでいこうかなと思ったのですがクッソ混んでいたのでやめました。蘭芳園手前の吉士笠街(Gutzlaff Street)を左へ折れます。ぼんやりしてると通り過ぎてしまいそうな(ピンクのお花が目印)、ほんとにここ通れんのかぐらいの裏道感漂うストリート(下図左)を下っていくと、ふたたび威霊頓街に出ます。

welington.jpg

威霊頓街を右へと歩いていきますと、さっき通った擺花街と砵典乍街の合流点に出ます。上に載っけたストレスでまゆげが抜けた閻魔の閻ちゃんこと閻孝国のおそろしい画像には、

4:20pm
Lyndhurst Terrace
Leading suicide bombers to attack on Dr. Sun at “The Bloody Crossroads”.


とのキャプションがつけられています。のんきに行き交う観光客のみなさんは、ここがそんなにも陰惨な血まみれプレイスだとは知る由も無いのでした。
さてその「血の十字路」から砵典乍街を下ります。
映画のラストで、李重光を乗せた人力車が陳少白(梁家輝)の手から離れて転がり落ちる石畳の道。それがここです、たぶん。様々な映画のロケが行われてきた名所です。

pott.jpg

もちろん『孫文の義士団』はここでロケをしたわけじゃないのですが、さすがにこの場所に立ってみると心中いろいろとブチ上がります。幕末の大坂での新選組の足跡を辿っていて天満八軒家船着場にあったと思しき古い石段にたどりつき、すり減った石の表をみてああまちがいなく土方歳三山南敬助がここを踏みしめていったのだな、と思った時と同じぐらいブチ上がります。
人力車が石段を転がり落ちて横倒しになり、閻孝国がへし折った梶棒で幌越しに中の人をぐっさぐっさやったあげくに陳少白の銃弾に斃れるとこらへんが、たぶん砵典乍街が皇后大道中に突き当たる、このあたりじゃあないかしら(上図左下)。
わたしも閻ちゃんみたくうつぶせで倒れてみたい!
もう倒れちゃおっかな!
クッソ暑いし足が棒だから!
などという欲望と戦いながら、石段を何度も往復しました。
ストレスでまゆげが抜けたおそろしいおかおばっかりじゃあれですから、砵典乍街のセットを背景に佇むタキシードの胡軍さんも載せておきますね(載せたいから




そこからは皇后大道中を渡り、徳輔道中を越えて干諾道中へ。
その先のDouglas Pierで、赤で示されたルートは終わっています。
省代表13名との会合を終えた孫文がこのDouglas Pierから艀に乗って香港をあとにした、ということなのだとすれば、プロダクションノートの略図に書かれた輔仁文社の位置からはごく短い距離の移動で済み、(現在伝えられている跡地とは違っていても)まさに打って付けの場所だったということになりましょう。


映画のなかで阿四たちの曳く人力車は、ラストの石段を別にすればほとんど平地を走り抜けています。
実際に歩いてみれば勾配のきつい、ぐねぐねと複雑にからみあう、道幅の狭い、でこぼこした道を登ったり下ったりするコースでした。ここを車曳いて走るのはそうとう体力要るだろうなあと思いました。映画の季節は10月だけど私が歩いたのは湿度90%超の6月半ば、途中でなんかちょっと朦朧としたりもしました。
『孫文の義士団』日本公開から6年。
もっと綿密に映画のルートを検証し、孫中山ゆかりの名所旧跡をおりまぜながら踏破された方も、きっといらっしゃるのではないかしらと思います(孫中山記念館は、香港を発つ朝、空港に向かう前に訪ねました)。
いまさら感も多々ございますけれど、楽しいぶらり旅でした。
参考にした資料の出所と根拠がよくわからないので事実誤認もあるかも知れません。そのあたりはゆるくご容赦いただけますと幸いです。
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