“Gethsemane”
Carl Heinrich Bloch
ラッキースター木星が私の星座乙女座に滞在しているいま。
占星術方面において一般にこのシーズンは、「12年に一度の大幸運期」なぞと呼ばれています。
現実はどうかといえば毎度のこと乍ら仕事も仕事じゃ無いこともぱつぱつです。
前の記事にも書きましたが年明けに最愛のバンド、ザ・イエロー・モンキーが復活を遂げ、くわえて大河ドラマ『真田丸』に溺れ、なんだかんだで浮かれぽんちな日々を送っております。
ザ・イエロー・モンキーが解散し、『真田丸』の前の三谷大河『新選組!』が絶賛放映中だった2004年。やはりラッキースター木星は乙女座に滞在していました。それはもう、たいへんでした、いろいろと。なにかと、ええ。石井ゆかりちゃんによればこの時期は幸運期ならぬ「耕耘期」、「その人の可能性の畑を耕して整地し、ここから12年をかけて育てていける幸福の種を新たに蒔く時期」だそうですが、12年前のあれは正しくそういうシーズンでした。蒔いた種を12年かけて育てた挙げ句のいまここであることは、ほぼ間違いありません。
昨晩は、2007年から『藍宇』に出逢う直前まで、夜な夜なこそこそ綴っていたお話たちを読み返しておりました。
自分が書いた文章を自分で読んでおもしろがるというのもなかなか不遜できもちのわるいかんじでありますが、でも、おもしろかったです。
ぶれてないな、と思いました。
2007年4月から6月に放映されていた『バンビ〜ノ!』というドラマの、所謂SS、二次創作というやつなんですけれども。
舞台となる六本木のトラットリア《バッカナーレ》、そこで働くソットシェフ(副料理長)桑原敦とカーポ・カメリエーレ(給仕長)与那嶺司のふたりがじつにめっぽうわたくしごのみのステキCPで、ぞっこんいかれてしまいまして。
もともとそれぞれの中の人(佐々木蔵之介、北村一輝)の結構なファンでしたしそんな彼らの『医龍』以来の待望の共演つうことも手伝って、いろんなところの箍がはずれまくっていろんなものがどろどろ漏れたりとか、してしまいまして。
もはや取り返しがつかぬくらい決定的に決壊したのがこの回。
con amore。〜『バンビ〜ノ!』六皿目。
それでまあ、決壊ついでに「うまれてはぢめてのSS」などという暴挙に出てしまったと、いう次第です。
『バンビ〜ノ!』って佐々木北村両者のファンのあいだではぜんぜん評価高くないんです。でも佐々木蔵之介がイタリア語をしゃべっているのにほとんどドイツの軍人さんみたいだったり、北村一輝はその2年後に上杉の御屋形様だったり、へたれアップレンディスタの中の人が『ゲゲゲの女房』でブレイクしたり、蔵之介さんのライバル役だった人が『イップ・マン』でドニーさんとガチだったり、個人的にはなにかと興味深い作品だったんです。あと何度も書いていますが「ふたり」というものが異常な迄にだいすきなので私。
件のSSのなかで与那嶺司をモデルにしたキャラクターに「家族」の概念について、
いちばんすきなひとと、朝も昼も夜も、ずっといっしょに暮らすこと。
なんてことを言わせているように、自分、家族と問われてまず浮かぶものは「あなたとわたし」なの。
あなたを残してどいつもいらないの。
二人を残してなんにもいらないの。
私はあなたそのもの、なの。
実人生に於いてはそうしたことが叶わなかった。
なので私はいまもずっとひとりでいるのでしょう。
ふたりはやがてひとりになる、という前提というか予兆というか確信というか。
そうしたものをひたひたと感じればこそ、私はここまで「ふたり」という物語に惹かれてしまうのです。
(翻って言えばそうしたものをまったく感じさせなければそれは「ふたり」では無くてただの複数の人、です)
だから、『藍宇』という物語との出逢いがどれほど大きなものだったか。
『真田丸』第33話の加藤主計頭清正に、
「よっぽどなんだろ? よっぽどなんだよな?」
と問われたら迷うこと無く「よっぽどです」と答えますよ。
朝、眠る情人のかたわらでひっそりと身仕舞いをし、部屋を出てゆく藍宇。数時間後に不慮の事故でその命を絶たれることなど彼は知らない。それなのに、もはや二度とはもどるまいといった、なにがしか純で硬質な決意のようなものを、そのときの藍宇は負っているかのようにみえる。物語がまだ動き出してもいないうちから終幕の彼らの運命を、映画はくっきりと其処に刻んでいる。そして陳捍東と藍宇の軌跡はそのまま、私が当時、夜な夜なこそこそ綴っていたお話の「ふたり」のそれに重なるものでありました。つまり、そう、だから、「よっぽど」なのでした。
『藍宇』で描かれる「悲劇」って言ってしまえば常套なんでしょうし、その点をとりあげてこの映画を批判する向きもあります。
ではなんで常套になるかといえば、それだけたくさんの人がじつはその「悲劇」を、密かに渇望しているからでしょう。
いちばんすきなひとと、朝も昼も夜も、ずっといっしょに暮らすこと。
そんなこと望むべくも無いからでしょう。
ふたりがふたりのままに完全無欠になったとき、それはもはや、「ふたり」ではなくなってしまう。
ふたりがふたりとして完全無欠になるためには、どうしたって「ふたり」という容器を一度、毀す必要があるのではないか。
「私はあなたそのもの」とは、そういうことなのではないか。
私がしんそこ美しいと思うのは、そういうことなのではないか。
そんなことを考えていたりします。
昨日で此処も、七年が経ちました。
中国では「七」は循環や周期において大きな意味を持つ数字であるそうです。だったらまあそろそろいっかみたいなかんじで、上記『バンビ〜ノ!』第六話を観たあとに綴ったお話を載っけてみます。2009年の夏にふた月をかけて書いた
『藍宇』の感想文と同じくらい、これもまた私の衝動のひとつのかたちでした。ドラマをご存じ無い向きにはなにがなんだかでしょうし、ドラマ並びに役者さんのファンの方にはご不快にかんじられることもあるやも知れません。まことにすみません。こそこそどうぞ。