降冬的故事。──『藍宇』其の是拾翅
2016.02.10 Wednesday
何よりもここでこうしてることが奇跡と思うんだ。
あなたに抱かれて。
あなたと乱れて。
ひとつに生まれて。
ふたつに別れて。
(「ALRIGHT」/吉井和哉)
陳捍東と藍宇が出逢った1988年に結成されて。
藍宇が生きた時間と同じ、28年を経て再生を果たし。
私が『藍宇』のDVDを購入した5月11日に復活後初のライヴツアーが初日を迎え。
そんな因果なバンド、ザ・イエロー・モンキー、その新曲“ALRIGHT”が一斉解禁されるんですよと告知された、その日が。
よりにもよってきょうです。
『藍宇』が殺青(=クランクアップ)を迎えた、2月10日なのです。
自分のなかで、おわりとはじまりが、ぐるんとループを描いていくような。
そろそろ解けるんじゃないだろうかなあ、と思うそばから新しい呪いに搦め捕られていくような。
そんなかんじがいたします。
『藍宇』が殺青を迎えた日の翌日に『キャロル』という映画が観客に向けて解き放たれるというのも、そうした無間の呪いのひとつかも知れない。
とかそんなことをおおまじめに考えているのは全世界探したって私だけで良いです。
『キャロル』は、1952年のクリスマスのニューヨークで出逢った美貌の人妻キャロルと舞台美術家を目指す19歳のテレーズの、真冬の道行の物語。
映画誌の仕事をしているのでタイトルだけはずいぶん前から知っていたし、カンヌ国際映画祭でルーニー・マーラが女優賞を獲った、などという情報も仕入れていましたが、肝心の物語についてはよくわかっていなかった。でも、浦川とめさんがご自身のブログで、
「しきりと『藍宇』が思い出されて、胸苦しいような思いと余韻にひたってしまいました」
と書かれているのを読んで、気持ちがちょっとざわっとしました。
その「ざわっ」は、フィクションで扱われる同性どうしの恋の常套みたいに(つまりは『藍宇』みたいに)『キャロル』もまた、どちらかの死を以て終わることになるのではないか、という「ざわっ」でした。
どんな物語であれ基本的にハッピーエンディングがすきです。ハッピーエンディングといっても、登場人物がみな不幸のどん底に叩き落とされあるいは無残な死を迎えたとしても主人公ひとりは命ながらえてきょうも新しい朝がきましためでたしめでたし、ということではありません。
主人公ひとりが不幸のどん底に叩き落とされあるいは無残な死を迎えたとしても、未だ明けない世界になけなしの光──希望を残してひっそりと消えてゆく。
そういうことが、自分にとってのハッピーエンディングです。
『藍宇』は、藍宇の死を以て終わる物語ではありますが、私にとってはこのうえ無く正統なハッピーエンディング・ストーリーといえます。だから私が『藍宇』に夢中になるのもあたりまえなのですが、とはいえ主人公が自己犠牲的に美しく命を落とすお話だったらなんだってすきだ、というわけじゃあ無い。
同性どうしの恋がどちらかの死を以て悲恋に終わる、という常套は数多の物語を生みだしてきました。でもそれは、凡手が使えば陳腐な凡作しか生まない諸刃の剣でもあります。カンヌで女優賞獲るような『キャロル』がそうした凡愚な真似をしでかしている筈も無いのですが、公式サイトで、
「魅かれあうふたりは、心に正直に生きようとして、思いつくまま西へと向かう旅に出る」
なんて読んでしまったら早くも頭のなかは
此の世の名残。夜も名残。死にゝ行く身を譬ふれば。あだしが原の道の霜。一足づゝに消えて行く。夢の夢こそあはれなれ。
ちかえもん。もとい近松門左衛門先生畢生の名作『曾根崎心中』おはつ徳兵衛道行の場になってしまうじゃあないですか。
「魅かれあうふたりは、心に正直に生きようとして、思いつくまま西へと向かう旅に出る」っての、捍東と藍宇でちょっと見てみたかったわ、という気もいたしますけれどもね。ていうかわしの腐れ脳内では疾うにそういう次第になっていたりもしますけれどもね。
ともあれ『キャロル』にかんじた「ざわっ」をどうにかしたく、映画にさきがけてパトリシア・ハイスミスの原作を読んでみることにしました。
エミール・クストリッツァの『アリゾナ・ドリーム』で、リリ・テイラー演ずるグレースが、「物語の前半に拳銃が出てきたら、後半でかならずそれが火を噴くということなのよ」みたいなことをいいます。
『キャロル』においても西への旅のはじまりでキャロルの所持する拳銃が登場しますし(映画の予告篇にも出てきます)、美しくせつなくたおやかなラブストーリーとばかり思っていたものが途中からどんどんサスペンスフルな苦い展開になっていくもんだから、「ざわっ」がどうにかなるどころか、読んでいるあいだ終始ざわざわしっぱなし。
でも、佳い物語でした。
「結婚」という檻に囚われたキャロルが陳捍東で、夢を叶えるためにニューヨークに出てきたテレーズが藍宇。どうしたってそういう切り分けをしたくなりますよ。キャロルの親友アビーの存在も、ちょっと劉征ぽいといえばぽいし。クリスマスを挟んで展開する「真冬」の物語というところもいっしょ。フランケンバーグ・デパートの人形売り場でカウンター越しにキャロルとテレーズが言葉を交わすところなんか、人波を挟んでほほえみあう捍東と藍宇の、マフラーの場面彷彿でしたし。
というふうになにかと『藍宇』を投影してみたくなるのは私の病が重いせいで、とはいえやはりふたつは別の物語です。キャロルとテレーズ、それぞれにあやうい風情を漂わせていても、それは最初に懸念した、西への旅=死出の道行的なこととはまったくちがう。世界がわたしに意地悪するからもうこんな世界なんかこっちからさよならよ、みたいなことじゃ断じて無くて。いまいるこの厄介事だらけの世界に「わたし」というものを刻むために、手を携え、曙光をもとめて闇路をたどる。ひとりとひとりで。ときにはふたりで。
『キャロル』は、そういう物語でした。
疾うに打たれてしまったエンドマークの彼方に往生際悪く渇望してやまないその先の、あるいはもうひとつの、捍東と藍宇の物語。こうもあってほしかった、ああもあってほしかったと降りつもるばかりの未練。
『キャロル』の最後の一行を清々しく読み終わって顔をあげて、やっぱり自分のなかにはそういう想いがあるんだな、ということが見えたりもしました。
儘ならぬ憂き世の儘ならなさを絶唱するのみで終わる、つれなくて意地悪で、そして潔い物語。
15年前のきょう、はじまったのです。
●2011年2月10日 地久天長。──『藍色宇宙/MAKING BLUE』
●2012年2月10日 後朝。──『藍宇』其の弐拾弐
●2013年2月10日 人人平安。──『藍宇』其の燦拾貳
●2014年2月10日 搬家。──『藍宇』其の燦拾勒
●2015年2月10日 切切偲偲。──『藍宇』其の是拾