六合。
2015.08.27 Thursday
2009年8月27日午前9時47分に最初の記事を投稿してから、きょうで六年が経過しました。
なんて書いていますが、たとえば一昨日深更に起きたひとつの出来事がそのとき想像していた「ゆきつく果て」なのかといえば、勿論そうでは無い筈です。
記事のなかで「五障の雲」という表現を使っています。
「五障」とは、こういうものです。
ご・しょう【五障】
1 女性がもっている五種の障害。梵天、帝釈、魔王、転輪聖王、仏の五つになれないとするもの。五礙(ごげ)。五重。
2 修道上の障害となる五種のもの。煩悩障、業障、生障、法障、所知障の五つ。
「五障の雲」とは、「五障を月の光を覆う雲にたとえていう語」です。
たとえば私のだいすきな長唄「京鹿子娘道成寺」の歌詞に、
我も五障の雲晴れて 真如の月を眺めあかさん。
みたいなかたちで出てきます。カッコイイ。
「真如の月」とは、「明月の光が闇を照らすように、真理が人の迷妄を破ること。煩悩が解け去って、あらわれてくる心の本体を月にたとえた語」です。
五障の雲の果てには屹度、真如の月がある筈なのです。
でもこの六年をかえりみても、そして七年目のこの先も、五障の雲が晴れ渡ることは無いのだろう──というか五障の雲のなかから出ることを善しとせず、孑然ととじこもり鬱鬱と彷徨うことになるのじゃないだろうかと、いう気がします。
正直に申しますとこのブログだってさすがに六年はつづくまいと、始めたころにはそうおもってもいました。
2001年2月に『藍宇』が殺青した当時は32歳と22歳だった胡軍さんと劉さんは、私が此処を始めた時点で41歳と31歳になっていました。六年経ったいまじゃあ47歳と37歳です。
47歳と37歳に、「その先」なんか無えだろ。
と、おもってもいました。
ところがどうやらふたりには、まだ「その先」があるみたいなんです。
そういうことは、六年つづけてみなけりゃわからなかったことでした。
そういうことが僅か乍らわかったこと。
それが唯一、「つづけた」ことへの冥加でありましょうか。
まる六年のきょうなのに“五”障のことばっか書いていて。だったらまる五年だった去年に書きゃあよかったじゃ無えかとおもわないでもありませんが。とりあえず縁起担ぎと数字合わせを兼ねてタイトルには「六」を入れてみました。「六合」とは宇宙のことです。
りく・ごう【六合】
天地と四方。
上下四方。
また、天下。世界。全宇宙。六極(りっきょく)。
liuhe【六合】
上(天)・下(地)・東・西・南・北の六つの空間。
(広く)天下;宇宙
47歳と37歳にあるその先。
深深と藍ばかり湛えた宇宙の中の、取り留めもつかぬような遙かな果て。
32歳と22歳が嘗て身を置いていた現実と、47歳と37歳がいま身を置いている現実が、五障の雲晴れた先の何処かでふたたびつながることも、あったりするのでしょうか。
あったらいいとおもいますし、六年前に私がかんがえていたのとはまったくちがうかたちで、それが2015年の新しい現実になっているんじゃないか、ともおもいます。
※引用は『精選版日本国語大辞典』『大辞泉』『中日辞典』(すべて小学館)、パーム20『愛でなく VI』(獸木野生/新書館)による。
臭跡を辿った挙げ句にゆきつく果てが何処かは、ゆきついてみないとわかりません。
なんて書いていますが、たとえば一昨日深更に起きたひとつの出来事がそのとき想像していた「ゆきつく果て」なのかといえば、勿論そうでは無い筈です。
記事のなかで「五障の雲」という表現を使っています。
「五障」とは、こういうものです。
ご・しょう【五障】
1 女性がもっている五種の障害。梵天、帝釈、魔王、転輪聖王、仏の五つになれないとするもの。五礙(ごげ)。五重。
2 修道上の障害となる五種のもの。煩悩障、業障、生障、法障、所知障の五つ。
「五障の雲」とは、「五障を月の光を覆う雲にたとえていう語」です。
たとえば私のだいすきな長唄「京鹿子娘道成寺」の歌詞に、
我も五障の雲晴れて 真如の月を眺めあかさん。
みたいなかたちで出てきます。カッコイイ。
「真如の月」とは、「明月の光が闇を照らすように、真理が人の迷妄を破ること。煩悩が解け去って、あらわれてくる心の本体を月にたとえた語」です。
五障の雲の果てには屹度、真如の月がある筈なのです。
でもこの六年をかえりみても、そして七年目のこの先も、五障の雲が晴れ渡ることは無いのだろう──というか五障の雲のなかから出ることを善しとせず、孑然ととじこもり鬱鬱と彷徨うことになるのじゃないだろうかと、いう気がします。
正直に申しますとこのブログだってさすがに六年はつづくまいと、始めたころにはそうおもってもいました。
2001年2月に『藍宇』が殺青した当時は32歳と22歳だった胡軍さんと劉さんは、私が此処を始めた時点で41歳と31歳になっていました。六年経ったいまじゃあ47歳と37歳です。
47歳と37歳に、「その先」なんか無えだろ。
と、おもってもいました。
ところがどうやらふたりには、まだ「その先」があるみたいなんです。
おどろいたわ。
人生って奥が深いのね。
もうこれ以上はないと思っても まだ先があるんだわ。
そういうことは、六年つづけてみなけりゃわからなかったことでした。
そういうことが僅か乍らわかったこと。
それが唯一、「つづけた」ことへの冥加でありましょうか。
まる六年のきょうなのに“五”障のことばっか書いていて。だったらまる五年だった去年に書きゃあよかったじゃ無えかとおもわないでもありませんが。とりあえず縁起担ぎと数字合わせを兼ねてタイトルには「六」を入れてみました。「六合」とは宇宙のことです。
りく・ごう【六合】
天地と四方。
上下四方。
また、天下。世界。全宇宙。六極(りっきょく)。
liuhe【六合】
上(天)・下(地)・東・西・南・北の六つの空間。
(広く)天下;宇宙
47歳と37歳にあるその先。
深深と藍ばかり湛えた宇宙の中の、取り留めもつかぬような遙かな果て。
32歳と22歳が嘗て身を置いていた現実と、47歳と37歳がいま身を置いている現実が、五障の雲晴れた先の何処かでふたたびつながることも、あったりするのでしょうか。
あったらいいとおもいますし、六年前に私がかんがえていたのとはまったくちがうかたちで、それが2015年の新しい現実になっているんじゃないか、ともおもいます。
2001─2015
※引用は『精選版日本国語大辞典』『大辞泉』『中日辞典』(すべて小学館)、パーム20『愛でなく VI』(獸木野生/新書館)による。