蛇果─hebiichigo─

是我有病。

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聖馬利亜。──『藍宇』其の燦拾穹
一陽来復。
今年のきょうは、太陽がうまれかわる日(冬至)と月がうまれかわる日(新月)が同時にやってくる、十九年に一度の「朔旦冬至」です。

朔旦冬至(さくたんとうじ)

陰暦十一月一日が冬至に当たること。
一九年に一度あり、これを中古以来瑞祥とし、「朔旦の旬」と称して宮中で祝宴が行なわれ、叙位、免租などもあった。


(日本国語大辞典)

おめでたい、ありがたい日です。
昨年のきょうはお風呂のバランス釜が壊れてしまって隣町の銭湯まで貰い湯に行きました。今夜は晴れておうちで柚子湯につかって『北京故事』を読んで、

新居で最初に愛し合った場所は浴室だ。

というとこらへんでほんのりするという09年12月22日以来の恒例行事を致す所存。


中国に「数九(shujiu)」というものがございまして。
冬至からの九日間を「九」として、それを九つ重ねた、81日間のことをいうのだそうです。
12月22日から81日を数えたところが3月12日。
冬至の夜に再会してマフラー巻いてもらってから、捍東の浮気を契機に藍宇が彼のもとを去るまでも、ざっとそのくらいの日かずだったのでしょうか。オリジナルのシナリオのト書は「春色無辺的夜」としているので如何にも数九ののちのようだけど。でも字幕としては「個多月後」と書かれていて、数字が無いので1ヵ月以上のちなのか2ヵ月以上のちなのか、或いはもっとのちなのかわからない。どうでも良いといえばどうでも良いことですが、年に一度『藍宇』に纏わるどうでもいいことに真剣にむきあってみる日がきょう、12月22日冬至ですのでどうも御免下さい。数九の最後の9日を「九九」と呼ぶそうで、9月9日生まれの胡軍さんのお嬢さんの愛称にもかぶっとるなあなんて思ったり。そういえば胡軍さん本人の数秘も「9」だった。

これも『藍宇』に病み呆けたひと(わしなど)以外にはほぼどうでもいいことかと思うんですが。
香港で『藍宇』が公開された日、『藍宇』というレジェンドがはじまったその日が、2001年11月22日だそうです。
冬至のちょうどひと月まえの、「1」と「2」がそれぞれ重なるゾロ目の日。
ゾロ目か。ゾロ目といえばですね。『藍宇』と筋少、双方に病み呆けているひと(ほぼ世界的にわしなど)以外にはこれまたほぼどうでも良いことかと思われますが。わしのだいすきなバンド筋肉少女帯さんがこの10月に発表した楽曲が“ゾロ目”(作詞:大槻ケンヂ先生 作曲:橘高文彦先生)というのです。

リセットなんかじゃなく
ふりだしに戻れ
いだきあい 二人で落ちていく
時の闇の中へ
二人は愛のゾロ目
時の果てでもゾロ目


つべのコメ欄で「演歌メタル」とまで称された楽曲の、そんな因果な歌詞を聴くたんびに時の闇のなかへいだきあい落ちてゆく捍東と藍宇を思い浮かべてなみだぐんでいたこの秋でした。そんな愛のゾロ目(ぷ)の御近影。






藍宇に死なれてのち、算命が告げるとおりにひとりぼっちでくそ長生きした捍東みたいなこれは、電視劇『赤水河』でおじいさんを熱演しているらしい胡軍さんです。
劉さんのはちょっとまえに微博にあげていた「復古的家庭照」。隙あらばあばれてやらんと虎視眈々のこいぬ兄妹を、おとうさんおかあさんががっちり押さえつけているさまもほほえましい一葉ですね。

【追記】
捕獲したての『北京、紐育』スチル。



「ヒロインが林志玲」という爆弾を内包しておる本作ですが、劉さんのへそがかわいらしいのでいっとき不安を忘れます(笑)。


さて。
朔旦冬至というスペシャルな冬至はこの先19年経たないと巡ってきませんし、19年後に生きているかどうかもわかりませんし、とりあえず生きてるうちにちょっとやらかしとこうと思い。
以下こそこそと。

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| 09:46 | 藍迷。 | comments(7) | - |
赤ッ毛のあの仔。──『ポリス・ストーリー/レジェンド』




ベテラン刑事ジョン(ジャッキー・チェン)は、ひとり娘のミャオ(ジン・ティエン)に会うため、歓楽街の中心にある全面をコンクリートに覆われた巨大なナイトクラブ“ウー・バー”にやってきた。仕事に追われ半年ぶりに娘と顔を合わせたジョンは、娘との慣れない時間を過ごしていたところ、突然背後から何者かに襲撃されてしまう。気がつくと、クラブの出入り口は頑丈に閉鎖され、ジョン親子を含む十数人の客は無数の爆弾が仕掛けられた建物内に閉じ込められていた―。建物を包囲した警察も全く手を出せない中、事件の首謀者であるクラブの経営者ウー(リウ・イエ)は、警察にある取引を求める。この籠城事件の裏には、ウーが長年にわたって綿密に仕組んだ、ジョンの刑事人生の過去にも関わる恐るべき復讐計画が隠されていた…。

『ポリス・ストーリー/レジェンド』という作品においては、成龍(ジャッキー・チェン)が年頃の娘をもつ父親をはじめて演じたということがひとつのトピックだったように思います。妻の不慮の死によって始まった鐘文(成龍)と娘・苗苗(景甜)の不和。誤解と齟齬を重ねたあげく、ひとつの事件を介して和解へと至る「父と娘」の物語。そう思って観て、間違いじゃありません。これは成龍の映画であり成龍のファンのための映画ですから、監督が「父と娘」の物語の陰に確信的にしのばせたもうひとつの物語──鐘文と武江(劉燁)による「父と息子」の物語──を無視できないやつなんか屹度私だけだ私だけで良いんだと思ってます。

『ポリス・ストーリー/レジェンド』の数年前に丁晟監督が劉燁を主役に起用して撮った『硬漢/アンダードッグ』という映画があります(→感想文)。
そこで劉燁は、水難事故で脳に障害を負った退役軍人、老三を演じました。「老三」とは、三人きょうだいの三番目を意味する通称です。
老三の使命は悪──法に背き、人を傷つけ、社会の秩序を乱すもの──を滅ぼすこと。だれに頼まれたわけでも無い、老三がもって任じています。すべての人間を「いいひと(=好人)」と「わるいやつ(=坏人)」に仕分け、わるいやつは徹底的にやっつける。はればれと澄みわたった眸をして、まっすぐ頭をあげて、己は天地に隠れも無き「いいひと」であると、老三は一点の曇りも無く信じているのです。
無垢が暴走して狂気に振れかねないほどの「善」を体現した役者が、『ポリス・ストーリー/レジェンド』では一転して善に滅ぼされるわかりやすい「悪」として立っています。『硬漢』『硬漢2』で共闘した劉燁を信頼するがゆえの監督のキャスティングでしょうし、そしてまた、老三と武江をひとりの役者に演じさせてみるというあたりに監督のたくらみめいたものも感じます。『ポリス・ストーリー/レジェンド』が「成龍の」映画であることは間違い無いのですが、同時にそれは、『硬漢』を撮った監督が綴る物語でもある。期せずしてというよりも意図的に『硬漢』をなぞっているとしか思えないようなところが、『ポリス・ストーリー/レジェンド』にはしばしば見受けられるのです。人質を取って立て籠もるという映画内での犯罪のありよう。廃工場を改装したWu Barの、かつて老三が乗り組んでいた潜水艦を思わせるつくり。老三は自室の壁いちめんに家族の写真や好きなスターの切り抜きを貼るのが好きなんですが(『硬漢2』ではしっかり成龍のポスターが貼られているという念の入りよう)、武江のオフィスの壁にもまたそうしたスクラップ群が見られます。さらに、一見まったく異なる老三と武江に、監督はおなじひとつのしるしを与えています。それは彼らの父が不在であるということです。
『硬漢』には老三の母や姉、兄(らしき人物)は登場しますが、三人きょうだいの父たるひとの影が無いのです。老三の自室の壁に貼られた写真にそれらしき姿がちらりとみとめられるものの、物語のなかでは父についても、そして父の不在の理由も、いっさい語られない。『ポリス・ストーリー/レジェンド』においては、武江の父と彼のあいだに起きたことは語られるけれど、やはり父親そのひとは(故人ということもあってか)最後までその姿を見せません。

いっぽうで、本作の売りでもあるような「父と娘」の物語──鐘文と苗苗の関係は序盤であまりにもあっさりと(「父さんごめんなさい父さんに心配してほしくて悪ぶってみたの」)修復されてしまいます。ちょっと失礼なことを申しますが「成龍が年頃の娘をもつ父親をはじめて演じる」というひとつのチャレンジは、ある意味そのトピックだけで達成されちゃってまあそれでいっか、みたいな印象です。関係修復した父と娘の愛情絡みのあれこれは映画の終わりまで続くけれど、語り手がほんとうに語りたい物語はそっちじゃないんじゃないかしら、とかいう気がするのです。病み呆けた私の気の迷いということにしても良いのですけど。

閉鎖されたWu Barから暗い穴を抜けてたどりつく地下鉄へ。
「父と娘」の物語の数倍の時間を割いて語られるのは「父と息子」の物語ではないでしょうか。
妻や娘をかえりみず仕事三昧だった父・鐘文と、母や妹と引き裂かれ亡き父の負債をすべて背負わなければならなかった子・武江による──自らを棄てた父へ、棄てられた子が仕掛ける、これはひとつの復讐劇なのではないでしょうか。

もうすぐ逢えると思った矢先に不慮の事故で命を奪われた妹、小薇(古力娜扎)。その死の謎を究明しその死に関わった連中を悉く糾弾し復讐する、というのが本作で武江に与えられた物語。小薇を死に向かわせたのはほかならぬ自分であるということを知った彼は、慙愧のあまり自らの命を絶とうとまで考えます。そこまで強い、近親相姦すら匂わせる妹への想いが、しかし武江の言動からはさほど伝わってきません。脚本の描き込みが足りないというよりも、武江が一途に想っているのは妹じゃなくてじつは「父」だから、だと思います。
亡き父。
その身代わりでもあるかのようにあらわれたもうひとりの「父」=鐘文。
妹を見殺しにした罰すべき相手ということをはるかに超えて、武江は鐘文に執着しています。家族を壊した父。母や妹を棄てた父。幼い自分に苦渋を舐めさせ、彼岸へと去った父。最早ぶつけようの無い憎悪や怨嗟を、武江は鐘文ひとりにひきうけさせているかのようです。椅子に拘束された鐘文をいたぶるとき。檻のなかで闘い傷つく鐘文を嘲笑しながら高揚していくさま。こめかみに銃を突きつける鐘文の絶望を眺めやる愛憎塗れの喜悦。鐘文と対峙するときの武江にきまってちらつく、ごくわずかな甘えのようなもの。あるいは労りのようなもの。わざと悪戯をして上目遣いに父の反応を窺う子どもみたいな顔。それぞれほんの一瞬のことなのですが、劉燁はたしかにそういう芝居をしています。書かれていないシナリオの行間を、彼はそういうふうに解釈して演じていたのではないかと思うのです。

2009年10月、『山の郵便配達』の感想文でこんなことを書きました。

『王妃の紋章』もそうでしたけど、この映画(=『山の郵便配達』)でもまた「父と息子」という関係が、なにやらただならない域にまで至っている。
その点については掘れば掘るだけ「泣けるいい話」から乖離していきそうだし、この映画を「泣けるいい話」という美しさだけで完結したいかたには、あまり気持ちの良いことじゃ無いかも知れない。
『山の郵便配達』と同様に「父と息子」のこまやかな関係を描く『天上の恋人』にもやはりそのにおいは濃厚にあった。『藍宇』でも、陳捍東はいわゆる「念者」で、大雑把にいえば藍宇にとって擬似的な父でもあったわけだし。それって結局、「息子が劉燁だから」ってことなんだろうか。劉燁というひとの佇まいそのものが、年長者の庇護や愛玩を(場合によっては嗜虐を)誘いだす点でおそろしく巧緻というか、そういう天然の資質をそもそも備えてらっしゃるというか。そりゃ勿論演技という点に於いて、ですけれど。

「年長者の庇護や愛玩を(場合によっては嗜虐を)誘いだす点でおそろしく巧緻」だった劉燁が、そうしたものとは一線を画して、成龍という巨大な「父」と向き合う「息子」を演じる。妻と娘を棄て、息子ひとりの手をひいて異国へ渡った男の姿が、武江がみつめる鐘文の向こうに見えてくるような。或いは、武江そのひとの姿に重なるような。どれほど過酷な目に遭わされようと息子は屹度父を愛していたのでしょうし、父もまた息子を愛した筈。人生の終わりへとむかう道行の相手に選び取ったのは、妻でも無く娘でも無く、彼の息子、武江だったのですから。
映画の終盤で武江が鐘文に叩きつける「再見吧!」という台詞、いまはもういない父への、あれは渾身の訣別だったと思います。ただひとことにこめた愛と怨嗟でもうひとりの父=鐘文を貫いた、あのときの劉燁のあの声音が、いまもわすれられません。



ジャッキーさんメインのレヴューはジャッキー迷の方たちがわんさか書いてらっしゃると思われますので、毎度のこと乍ら劉燁さん「だけ」に特化した感想文ですみません。劉燁が出てるのに映画は惜しいとか、劉燁がこんな映画に出るのは勿体無いといったお声を(ある意味それも劉燁さんを買ってくださっていると思うのですが)耳にしたので、いやいや惜しくも無いし勿体無くもなくって劉燁さんがここに居るのはまったくの必然なんですよ、ということを書きたくて書きました。そして毎度のこと乍らタイトルと内容は関係があるようで無いようで恐縮です。ここんとこ萩尾望都先生の『赤ッ毛のいとこ』を読み返していたもんですからつい。そんな、赤ッ毛のこいぬのかわいいこいぬっぷりも想定外にたっぷり拝める映像特典付きBlu-ray&DVDが、ただいま絶賛発売中です。初回プレス分限定封入特典の特製ブックレット(テキストは劇場版パンフレットの再録でした)の表3には、冒頭に掲げたジャッキーさんとのツーショット写真が載っていて嬉しいです。リリース告知以来、劉燁さんの影も無いんじゃねえかハブられてんじゃねえかと故無き被害妄想に苛まれていたこの半年でしたが、映像特典の劉燁さんのインタヴューはこれまで観たことの無いものでしたし、監督のインタヴューでも彼についてはそれなりに言及されていて、被害妄想も報われる(笑)充実の内容でございました。



| 11:10 | 電影感想文。 | comments(4) | - |
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