蛇果─hebiichigo─

是我有病。

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一级棒。





黄渤さんが2013年度上半期集客ランキングで1位になったそうですよ。
●記事はこちら→
●元記事はこちら→黄渤半年145亿夺内地票房王

39歳のお誕生日、8月26日の翌日に発表になりました。嬉しう御座んす。『テレビで中国語』観てたらこないだの上海国際映画祭のもようがちょこっとだけ映って紅絨毯闊歩する『警察故事2013』チーム登場で我が意を得たり!とモニター前ににじりよったのだがジャッキーさん丁晟導演景甜さんだけがフレームインでかんじんかなめの劉燁さんがきれいに見切れてしまうという受信料返しやがればかやろうひとでなし的痛恨屈辱の事態に泣き崩れたことも(長)、これでどうにか相殺されたきもちです。興収145億台湾ドルという記録には『厨子戏子痞子』のスマッシュヒットも一役買っていることはまつがいなく、この勢いで管虎導演・黄渤さん主演・日本未公開作品の公開だって夢じゃないかもだわ、と皮算用もとい希望の光もほのみえてまいりました。
『斗牛』とか『杀生』とか『厨子戏子痞子』とか。
『厨子戏子痞子』とか。『厨子戏子痞子』とか。



天の配剤でしょうか。引用記事にも取り上げられている中国映画興収記録を塗りかえた大ヒット作『ロスト・イン・タイランド(原題:人再囧途之泰囧)』が、9月に東京でジャパンプレミアだなんて詳細こちら→

こなた、発売当日10時の時報と同時に鼻息荒くチケットぴあさんにアクセスして前売り券を購入したのですが、予想どおりいまだに余裕で買えちゃいますから(号泣)いま中国でいちばん稼げる男を体感したいという向きはぜひ、ご家族ご親戚ご近所お友達お誘い合わせで上野へ来てね!!

| 20:43 | 電影瑣聞。 | comments(6) | - |
守拙。
あれよというまに四年が過ぎて、ここも今日から五年目に入りました。


昨年のいまごろは「三年不蜚不鳴」とか言ってましたが四年が過ぎても依然不蜚不鳴です。まあそんなもんだ。四年が過ぎたので「四」のつく故事成語でなんか書こうかなあ、なんて考えました。しかしどうも「四」のつく故事成語は「三」のそれほど多くないようで。劉邦さん関係なら「高祖本紀」で蕭何さんが言った「四海を家と為す」(天下の至るところを自分の家のように考える)が有名ですが、そこまで太っ腹でもないです。「項羽本紀」の「四面楚歌」はある意味当たってんなと思わないでもないですが絶望して死んでしまってはだめじゃないですか。そうこうするうちだんだんこの際「し」で始まってりゃいいんでしょばかやろうとか自暴自棄(これも「し」で始まる故事成語)なかんじになってきました。『藍宇』がテーマのブログなんだから中国の故事成語はべつにどうだっていいのだが、生来の負けず嫌いなのでどうもすみません。ブログテーマ以前に単に中国の故事成語が好きなのかもしれん。それをふまえて「守拙」。


守拙(しゅせつ)

素朴な性格をたいせつに守り通すこと。
世間にこびた生き方より、むしろ要領の悪さに徹した生き方をすること。

【原文】
羈鳥恋旧林、池魚思故淵。開荒南野際、守拙帰田園。(陶潜・帰園田居)

【意味】
旅をしている鳥が、生まれ育った林を恋い慕い、庭園にいる池の魚が、もといた淵を思い慕うように、わたしも故郷に帰り南方の荒野を開拓しよう。田園に帰って世渡りのへたな生き方に徹しよう。


なんかどうも都会に馴染めないから地元に帰るべか、と思って帰ってきても地元にだって(都会よりもむしろ濃厚な)「世間」はあったりするわけです。そこで依怙地になって閉塞して孤立することを称賛しているわけじゃなくて。けっきょくはどこにいたって「拙」、すなわち「人工を加えない素朴な心」を持っていればそこが自分にとっての田園なんだよということかなと、勝手に解釈しました。


南方の荒れ野をこつこつ耕していたら四年が過ぎました。
耕して種蒔いて肥料をやって収穫した果実を市場で売ってお金儲けをすることが目的では無く、耕すことそれ自体が素朴に愉しいから耕しています。そういうことが自分にとっての「拙」です。四年のあいだにはいろいろなことがありましたが、その「拙」は枉げずにずっと持ちつづけています。五年目も、持ちつづけていけたらよいなと思います。







※引用は『中国故事成語辞典』(金岡照光編・三省堂刊)による。

| 11:52 | 藍迷。 | comments(12) | - |
ヴァカンス。
このアウガストはめったやたらと忙しかった。
夏フェスも花火大会も無しで仕事に追われていました。
計算してみたら半月で通常のひと月分以上稼いでて、毎夏恒例の(主にストレス要因による)湿疹も出ちゃうし、胃の調子もいまいちだし、なんかうんざりして、だから残りのアウガストは遊んで暮らすことにしました。といっても16日から25日までなのだが(しかもどうしても断りたくない仕事もびみょうに入れているのだが)、いちおう「夏休み」という大義名分の下、だらっとしています。帰省して、地元のしょぼい花火大会観て、太極拳と八卦掌の稽古して、観たかった映画のブルーレイ借りて、飽和している押し入れのなかを片付けて、髪を切りに行きました。だらっとしてるようでしてないような。でも貧乏性の自分的には十二分にだらっとしています。だらっとしてるあいだに太陽も乙女座へ移動しました。明日24日は文京区で胡軍・張涵予両大哥とランデヴーなので、ちょっとしゃきっとする予定。欲望と理性のメリーゴーラウンド燃える躍動が目を覚ます、そんな魅惑の詳細はこちらでございます→ 

七夕に名画ドロップしてくださった劉燁画伯もただいまニースでだらっとしているもよう。昨日は、諾一といとこのお嬢ちゃんを連れて1879年に設立されたニース天文台を訪問したそうです。




图一:别认为哥是去砸场子,哥是带诺一和他堂姐参观一座十九世纪的天文台,这天文台长的像白宫。图二:孩他娘很费劲的给诺一解释天文望远镜的作用,半天诺一也没明白,我只说了三个字小诺就懂了,金箍棒!图三:麻烦看看


後ろ姿がいいなあ劉燁さん。
Tシャツ越しの、僧帽筋、脊柱起立筋、大臀筋の流れがかっこいいな。
あと、すらりと長い足もいいな。
半ずぼんとキャップという出で立ちも相俟って『硬漢(アンダードッグ)』の老三みたいです。そして左脇にいるちっこいのもちっこいなりにいっしょうけんめい老三ぽい(笑)。
微博にはお写真3枚上がっていて、「お手数ですが、読んでね(はぁと)」としてるその3枚目がこちらなんですが。





劉燁さんの直筆でしょうか。殴り書きの簡体字ですががんばって読み下しました。

微博は1回で140字しか投稿できないんで図で伝えるけどおすすめの携帯ゲームってなんかないかなあったら教えてくださいできれば育成シミュレーションゲームでちょっと難しいのとかだとかんしゃかんげきなにしろフランスのテレビわけわかんなくて退屈なんだあ!(意訳)

みたいなことをおっしゃりたいようです。字数足りないんだったらもう1コ投稿すりゃあいいのに、敢えてこういうめんどくさい小技を利かせるところが劉燁さんならではのウイットというかサービス精神というか。ご本人もきっとおもしろがってやってんだろうというのが伝わってくるからこっちも愉しいのです。

そしてこれまた大概おわかりでしょうが『藍宇』馬鹿一代のこなたが「麻烦〜」という言い方で脊髄反射といえば捍東と待ち合わせした日本料理店で藍宇が女給さんに言ってたこの台詞しか無い。

麻烦你给我一个可乐,一个杂锦锅面。

いつでもどこでも俺様モード全開でふんぞりかえってる捍東にひきかえ、お客様にサービスするのがお仕事の女給さんにものを頼むときでさえ「お手数をかけますが」とつつましく礼儀正しい藍宇。捍東に会えた嬉しさが語気にも表情にも隠しようも無く滲んでいるのがなんともかわゆくていじらしくて毎度ここで泣く。


| 17:40 | Liu Ye(劉/リウ・イエ) | comments(8) | - |
月亮哭了。
一昨日8月13日は中国における七夕節でした。中国では旧暦でお祝いされ、各地でさまざまな風習がおこなわれています。バレンタインデーのことを「情人節」といいますが、もともとの情人節は、年に一度、牽牛と織女が天の川を越えて逢うというこの七夕のことを指すんだそう。
七夕節から一日遅れの14日夜、劉燁画伯入魂の一作が微博に。




哥把时差搞错了,以为现在是国内的七夕,没想到错过了。哥补张美图,哥自己画的,哥一直被牛郎织女的故事感动,两个小情人每年只有在这个时候,才能踩着麻雀的后被战战兢兢的,欣喜若狂的,又无限伤感的相聚一回,多悲催啊!画完后,哭了我都。诺一被他爸爸的画功折服,淘气的伸出手,摆出了:业!

時差まつがえちゃったよと仰せです。時差ってことは国外にいらっしゃるのかしら画伯ご一家は。いつもながらのアヴァンギャルドな御作だ。七夕の絵か、と思って見るからこれって人間なんだなとかろうじてわかる牽牛織女。向かって左の髪の毛を振り乱して全開笑顔のひとが織女でしょうか。ふたりを右上方から見下ろす月は、拡大してよく見ると涙をこぼしています(キャプション付き)。年に一度の逢瀬が叶った恋人たちにおもわずもらい泣き、といった風情でしょうか。芸が細かいです画伯。ふたりがのっかっているのは鵲(かささぎ)が翼を並べて天の川に架けた橋。近松門左衛門の『曽根崎心中』道行のくだりにも、

星の妹背の天の川 梅田の橋を鵲の 橋と契りていつまでも われとそなたは女夫(めおと)星 必ず添うと縋り寄り 二人が中に降る涙 川の水嵩(みかさ)も増さるべし。

なんて出てきて、いろっぽいものです。四六時中『藍宇』のことばっか考えている『藍宇』馬鹿一代のこなたがこんないろっぽい七夕の夜に『藍宇』のことを考えずにおられましょうかいやおられないのでこそこそと微博に載っけてしまいましたが



劉燁画伯ゑがく鵲橋によって、捍東と藍宇も一日遅れで無事に天の川渡れたみたいなきもちです。ありがとう存じます。引用した家持の歌は冬の歌で気がもとい季がちがっておりますが、『藍宇』はある意味冬の映画だからつうことで、御容赦くださいませ。

さて、上のお写真左側に写っているのは諾一ぼっちゃんのおてて、ならびにそれをつかむ画伯のおててとおもわれます。
なんだかすんごい力入れてぎうっと握っておられます。ぼっちゃんのおててがぷっくぷくでかわゆいですが、これ牽牛織女で「ふたり!」って言いたいのか、あるいはVサイン出してんのか。微博のラストの「业!」というのがよくわからなかったのですが「业」のピンインはyeの四声で(刘烨の「烨」と同じ)、だからもしかして「イエー!(Vサイン!)」てことかしら。そう思えばますますかわゆいこいぬ父+こいぬむすこです。そして大概もうおわかりでしょうが『藍宇』馬鹿一代のこなたが「イエー!(Vサイン!)」ときいて脊髄反射といえばこれしか無い。




胡軍さんのおてても、ぷくぷくでかわゆいです。


牽牛に織女がいたみたいに、
捍東に藍宇がいたみたいに、
諾一にもいつか素敵な織女が現れますやうに、とぞ思ふ。


織女といえば。
ぱぱどうしがゆびきりして決めた諾一のいいなずけの姫、呉彦祖さんの掌中の珠・呉斐然(Wu Feiran)ちゃん(英語名はRaven[レイヴン]ちゃん)もさきごろあいらしいお顔を拝ませてくださいましたけど、




彦祖さんはきっといまごろ、
「そんじょそこらの野郎などには断じてくれてやらぬわばかもの!」
なんて、思っておられるのかも知れないわ。
昨夜は『王的盛宴』の鴻門の会の項羽劉邦を観ながら、そんなぱぱふたりの心中を勝手に忖度しつつええかんじに酔っぱらいました。

| 11:46 | Liu Ye(劉/リウ・イエ) | comments(10) | - |
随意変化。
『グランド・マスター』の感想文がいつまで経っても書けやせんのはすべてこのくそあづい夏が悪いわけでは無くって(でもあるけど)勿論怠惰な私が悪いのです。
ていうか映画観たあとずいぶん経つのに考えることが多すぎてなかなかまとまらない。まとらないまま、書かないままで終わりそうな気もするし、それも残念なような。『グランド・マスター』という映画を感じ考えながら日々を暮らすうち、感じ考えていく自分の変化によって逆に映画に対して問い直したいような思いが募ったりなんかもして。二度観たがせめてもう一度と思ってるうちに関東近県での上映は終了してしまい、『イップ・マン 序章』『イップ・マン 葉問』と併せて三本立てドニーさんVSトニーさん・違いは濁点の有無だけじゃないぜイップ師匠ガチまつりとかいうステキプログラムを心ある劇場さんが組んでくれないものかなあ、とかぼんやり星にお願いしたりしているのでますますいつまで経っても感想文が書けやせん。
ただでも、感想文を書くまえにやってみたいと思ってたことがあった。それが叶ったのでちょっと胸のつかえがおりた気持ちです。

おもえば『イップ・マン』を観たときにも、

直近で自分がやりたいことは以下のふたつです。

其の壱・長袍(チャンパオ)作る。
其の弐・詠春拳習う。


とか書いていた生涯一みいはあな私でしたが。
『グランド・マスター』観たら詠春拳より八卦掌(はっけしょう)を習ってみたくなってしまい。
劇中で、章子怡演じる宮若梅が操っていたあれです。

八卦掌は、清代中期、河北省の董海川(とうかいせん)が放浪中に出会った道士(道教を修めた人)から円周を歩く歩法を学び、そこから編み出し創始したとされています。しかし董海川自身が謎の多いひとで、八卦掌の成立や発展についてもはっきりした経緯がわかりません。董海川は宦官として清廷に仕えたといわれていたり、宦官が創始した武術だから男性的な側面と女性的な側面をあわせもっているのだという説も読んだが、董海川は少年のころに自宮してから武術を始めたわけじゃなく武術の修行を積んだ挙げ句壮年になって宮刑を受けて宦官になりました説もあって、じゃあ自宮以前に武術の素養はあったんじゃん。だからもう八卦掌の歴史についてはなにがなんだかです。そのあたりについては(そのあたり以外の武術全般についても)こちらさまが非常におもしろい読み物としてお書きくださっています。よろしければご一読ください。

●知っている人は読まなくてもいい八卦掌の話
●伝承者によって内容が大幅に違う謎の流派が出現する話


『グランド・マスター』のパンフレットの解説には八卦掌について、
「ほとんど拳(こぶし)を用いず掌(てのひら)を用いて千変万化にして縦横無尽に動いて闘う」
「敵の攻撃をかわし、いなしてぶつかり合わず闘うことを特徴とし、その練法はあたかも舞踊のごとく華麗」
とある。
自分がなんで八卦掌にひっかかったかというとお話の前半で八卦掌の使い手である金楼の女芸人がイップ師匠に向かって、
「八卦掌は狡猾よ」
と言う場面があって、その「狡猾」というひと言がなんだかもう、ひじょうに官能的に心に刺さったのです。劇中で描かれる八卦掌VS詠春拳の武闘も素肌の上をつめたい蛇身がするするっと撫でていくようなかんじがえろーすでした。リンク先の著者様は、八卦掌は華麗だが悪辣、本来は暗殺のための武術ではないかと書かれています。狡猾だとか悪辣だとか、のーんびり太極拳の稽古をしている中高年には一生縁の無い形容で、いったい八卦掌のどこがどう狡猾で悪辣なんだべか、ともうドキドキしてしまい。そもそもなにがなんだかな拳法なので文献読んで諸説左見右見したところで所詮なにがなんだかにきまってるからこの際体感したほうが早いなと思って、先日とある教室の門を叩いて教えを請うてきました。

『グランド・マスター』で八卦掌は狡猾と言われていたけどその「狡猾」がどういうことなのかを知りたいと思ったのです、と申し上げたら(そういうことを言って習いに来たやつもはじめてだそうですが)、
「わかりました(笑)。じゃああとでお見せしましょう」
と、稽古の途中で老師が実際に打法をやってみせてくださいました。お金払って習ってることなので詳細は書きませんが、要はパンフの解説にもあった「敵の攻撃をかわし、いなしてぶつかり合わず闘う」ことを狡猾と形容しているのではないか。もちろん実際にはぶつかり合ってはいるのだが、真っ正面から力でがんがん攻めていくのではなくて、ひらりするり、しゅっ、すぱぁん!みたいなかんじで、思いもよらないところから思いもよらない攻撃が急所めがけて繰り出されるのです。かわしていなしたときにはもう殺してますみたいな、乱暴な言い方すればそんな印象。

太極拳と八卦掌はどちらも内家拳とはいえ、股関節の使い方など、太極拳ではやったら注意されるような用法が八卦掌では必要なことだったり、びみょうに混乱したりもしました。八卦掌の特徴でもある円周上を巡る歩法(「走圏」という)では、円の中心に対して自分の意識を同化させるということを目指すのですが、なにしろ慣れない動きなのでときどきすっ転びそうになったり。
2時間ぽっちでしたが、自分の身体を動かしてみて、戸惑ったりよろよろしたり「おっ!」てなったりすることは、やっぱり気持ち良かったし、おもしろかった。私は基本的に武術ヲタじゃないですし、ストリートファイトで強くなってやるんだぜとも思ってないし、学習したことを活かす目標・目的としての段位取得とか大会出場とかにも興味がありません。そういうことを目指してがんばっていた時期もあったけど、がんばりすぎて、他人の思惑に振り回されて、嫌気がさして、あげく10年間太極拳を休んでしまいました。
考えてみれば、他者から学ぶことを通じてこの厄介な「私」を矯めたい、と思って始めたのが太極拳でした。五黄土星の生まれでいつでもどこでも「中央」に居られないと心身共に調子悪くなっちゃうんだからしょうがないというのはあるにしても、それほど俺様で王様で傲慢で自己中心で頑固一徹な人間なのです。八卦掌の、「まず他者がいる」「自らの身体を通して大地と対話する」という意識、調和しつつもとどまらず、固まらず、劇的に変化してゆくことを恐れない本来的に自由なありようからは、改めて学ぶところが大きいんじゃないかなと感じました。

に、しても。
ずーっと太極拳だけやっていきゃあいいやと思っていたのに、この歳になって(同じ内家拳とはいえ)まるでちがう武術を一から始めるというのはなかなか冒険だなあという気もします。
やっぱり自分という者は「考える」だけではだめで、そこに「動いてみる」が伴ってはじめて「学ぶ」になるのでしょう。
そしてそれが「あらおもしろい」と思えばやっぱり一秒たりとも躊躇せずどんどんやってみちゃうのです。
そこらへんが、石井ゆかりちゃん曰くところによる「頭脳の星座であると同時に感性の星座」「アタマで考えることとカラダでキャッチしているセンス、つまり感覚が、すごく密接につながっている」乙女座生まれの所以かも知れません。


八卦掌のなんたるかについては語る資格がまったくございませんので王家衛が映像化するとだいたいこんなもんでした、てことで『グランド・マスター』終盤の、宮若梅(章子怡)と馬三(張晋/マックス・チャン)による八卦掌VS形意拳ガチ対決シーンの動画なんかどうぞ。




上の動画のタイトルでは「張震」になってるけど「張晋」の間違いです。
そして1998年、張晋24歳のときのすんばらしい太極拳の表演動画もどうぞ。




| 13:50 | 瑣屑。 | comments(6) | - |
生きめやも。
秋が立ったそうです。
風は立ちません。
体内に熱がこもって、こもった熱で胃をやられたりして、もてあまします。
もてあましながら仕事をし、日付が変わったころに仕事が終わって、あとは『藍宇』を観ています。
毎年この時季になると無闇と『藍宇』ばっかり観ています。
4年前、ここを立ち上げる直前がやっぱりそんなかんじでしたし。
陳捍東と藍宇が出逢った「九月になろうというのに蒸し暑」い夜がだんだん近くなるから、「呼ばれている」ということなのかもしれません。
誰に、なにになのかはわかりません。

『藍宇』は真冬の北京で撮影されたものだからフィルムのなかの夏も偽の夏。
ワイシャツの袖まくりあげてキューを操る腕ににじむ汗とか、
エアコンの壊れたオフィスで扇風機がぼんやりとかきまわしている空気とか、
体温を超えるような暑さのなかで抱き合うふたりの体温とか、
じっさいにはありもしないそんなものを毎夜思います。すると不思議と体内にこもる熱が引いて、するりと眠りに就くことができます。
夏が終わるまで、今年もこんなかんじで生きてます。











| 22:39 | 藍迷。 | comments(4) | - |
軽飄飄。





meiryさんに教えていただきました。
来月開催の第6回したまちコメディ映画祭in台東で、
『ロスト・イン・タイランド』(原題:人再囧途之泰囧)ジャパンプレミア
だそうです。

きゃーきゃー黄渤さんに逢えるのねきゃーきゃー!!

このきゃーきゃー感を共有してともに喜びの舞を舞ってくださる方が、2013年サマーのジャパンにどれほどいらっしゃるのかはよくわからないのですが。
2011年9月に『レジェンド・オブ・フィスト 怒りの鉄拳』観て。
2012年9月の『ハーバー・クライシス 湾岸危機』はぼへっとしてるあいだに上映期間終わっちまってDVD鑑賞で(いろいろ疲れる映画でした。おもしろかったけど)。
そして2013年9月、銀幕では2年ぶりとなる黄渤さんとの再会でございます。
9月は私のお誕生月なんですが、同じく乙女座の黄渤さん(彼は8月生まれだが)の出演作品が日本公開されるのが3年連続で9月、というのも不思議ですが嬉しいことです。
ジャパンプレミアつうことはまさかの黄渤さん来日→ご登壇なんかもあったりすんだべか、すんだべか、すんだべか(エンドレス
などと皮算用しつつ、とりあえずチケット押さえる算段も抜かり無くいたしたい。詳細は以下のとおりです。


第6回したまちコメディ映画祭in台東 特別招待作品『ロスト・イン・タイランド』
●日時:2013年9月16日(月・祝) 13:15 開場 13:30開映 自由席1300円
●会場:東京都美術館講堂

チケットぴあでの一般発売は、8月10日(土)10時より。




今年はさらに黄渤さん出演作の日本公開がつづきます。
すでに先月に発表されている『101回目のプロポーズ〜SAY YES〜』(原題:101次求婚)。こちらは10月19日(土)大安吉日ロードショウ。9月10月連続で黄渤さんまつり開催という極北的バブルな秋です。この勢いで『厨子戏子痞子』も公開されたりなんか、しないもんかなああああああ。


| 16:15 | 電影瑣聞。 | comments(2) | - |
很可爱的两位・2。
ひとつ前の記事の某画伯(笑)に「捍東と藍宇を、描いてくださいよう」とお願いしてみたところ、昨日一日で3点も新作ドロップしてくれました。どうもありがとう。











どこを切ったって嫌いなところがひとつもみつからない『藍宇』ですが、敢えてベストな場面を3つ選べといわれたら個人的にはここ、というその名場面3つ。
御意見御感想いろいろおありかと思いますが、『藍宇』を愛するひとが『藍宇』を描いてくださるということが純粋に嬉しい。3点目の雪の公園の藍宇の表情が、理屈抜きでとても好きです。やさしい、いい顔をしているなあ。じっさいに撮影されたカットはこういうアングルじゃないんだけど、だからこういうアングルでとらえてみたいというその気持ちも、ものすごくわかります。映画は観客の数だけあるんだよなあというか。


雪の公園の場面がもしも編集時に削除されずに本編に入れ込まれていたら、『藍宇』という映画の評価は、というか映画そのものは、劇的に変わっていたでしょう。
純白を背景に、陳捍東と藍宇を演じてきたふたりの役者のしみいるような思いの交感、それだけがシンプルに記録された場面。空気のつめたさと、ひとりがひとりをただみつめるそのあたたかさが、同時に伝わってきます。波瀾の十年を経たここで、既にふたりは「陳捍東と藍宇」以外のなにものでもなく、でもそれはやはり「胡軍と劉燁」という優れた役者による「演技」でもあって、観ているとそのあたりの境目がだんだんよくわからなくなって、挙げ句どっちだってよくなってしまう。『藍宇』という映画のエッセンスはこの雪の公園の数分に凝縮してしまえる──と言うのは危険なことかもしれないけれど、そう言ったってまちがいじゃ無い気がする。
それほど幻惑されてしまう。いっそ危険なくらいに。
それゆえにこの場面は『藍宇』の86分から(敢えて)削除されたんだろうな、と思ったりもします。
| 12:59 | 藍迷。 | comments(2) | - |
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