『グランド・マスター』の感想文がいつまで経っても書けやせんのはすべてこのくそあづい夏が悪いわけでは無くって(でもあるけど)勿論怠惰な私が悪いのです。
ていうか映画観たあとずいぶん経つのに考えることが多すぎてなかなかまとまらない。まとらないまま、書かないままで終わりそうな気もするし、それも残念なような。『グランド・マスター』という映画を感じ考えながら日々を暮らすうち、感じ考えていく自分の変化によって逆に映画に対して問い直したいような思いが募ったりなんかもして。二度観たがせめてもう一度と思ってるうちに関東近県での上映は終了してしまい、『イップ・マン 序章』『イップ・マン 葉問』と併せて三本立てドニーさんVSトニーさん・違いは濁点の有無だけじゃないぜイップ師匠ガチまつりとかいうステキプログラムを心ある劇場さんが組んでくれないものかなあ、とかぼんやり星にお願いしたりしているのでますますいつまで経っても感想文が書けやせん。
ただでも、感想文を書くまえにやってみたいと思ってたことがあった。それが叶ったのでちょっと胸のつかえがおりた気持ちです。
おもえば『イップ・マン』を観たときにも、
直近で自分がやりたいことは以下のふたつです。
其の壱・長袍(チャンパオ)作る。
其の弐・詠春拳習う。
とか書いていた生涯一みいはあな私でしたが。
『グランド・マスター』観たら詠春拳より八卦掌(はっけしょう)を習ってみたくなってしまい。
劇中で、章子怡演じる宮若梅が操っていたあれです。
八卦掌は、清代中期、河北省の董海川(とうかいせん)が放浪中に出会った道士(道教を修めた人)から円周を歩く歩法を学び、そこから編み出し創始したとされています。しかし董海川自身が謎の多いひとで、八卦掌の成立や発展についてもはっきりした経緯がわかりません。董海川は宦官として清廷に仕えたといわれていたり、宦官が創始した武術だから男性的な側面と女性的な側面をあわせもっているのだという説も読んだが、董海川は少年のころに自宮してから武術を始めたわけじゃなく武術の修行を積んだ挙げ句壮年になって宮刑を受けて宦官になりました説もあって、じゃあ自宮以前に武術の素養はあったんじゃん。だからもう八卦掌の歴史についてはなにがなんだかです。そのあたりについては(そのあたり以外の武術全般についても)こちらさまが非常におもしろい読み物としてお書きくださっています。よろしければご一読ください。
●知っている人は読まなくてもいい八卦掌の話
●伝承者によって内容が大幅に違う謎の流派が出現する話
『グランド・マスター』のパンフレットの解説には八卦掌について、
「ほとんど拳(こぶし)を用いず掌(てのひら)を用いて千変万化にして縦横無尽に動いて闘う」
「敵の攻撃をかわし、いなしてぶつかり合わず闘うことを特徴とし、その練法はあたかも舞踊のごとく華麗」
とある。
自分がなんで八卦掌にひっかかったかというとお話の前半で八卦掌の使い手である金楼の女芸人がイップ師匠に向かって、
「八卦掌は狡猾よ」
と言う場面があって、その「狡猾」というひと言がなんだかもう、ひじょうに官能的に心に刺さったのです。劇中で描かれる八卦掌VS詠春拳の武闘も素肌の上をつめたい蛇身がするするっと撫でていくようなかんじがえろーすでした。リンク先の著者様は、八卦掌は華麗だが悪辣、本来は暗殺のための武術ではないかと書かれています。狡猾だとか悪辣だとか、のーんびり太極拳の稽古をしている中高年には一生縁の無い形容で、いったい八卦掌のどこがどう狡猾で悪辣なんだべか、ともうドキドキしてしまい。そもそもなにがなんだかな拳法なので文献読んで諸説左見右見したところで所詮なにがなんだかにきまってるからこの際体感したほうが早いなと思って、先日とある教室の門を叩いて教えを請うてきました。
『グランド・マスター』で八卦掌は狡猾と言われていたけどその「狡猾」がどういうことなのかを知りたいと思ったのです、と申し上げたら(そういうことを言って習いに来たやつもはじめてだそうですが)、
「わかりました(笑)。じゃああとでお見せしましょう」
と、稽古の途中で老師が実際に打法をやってみせてくださいました。お金払って習ってることなので詳細は書きませんが、要はパンフの解説にもあった「敵の攻撃をかわし、いなしてぶつかり合わず闘う」ことを狡猾と形容しているのではないか。もちろん実際にはぶつかり合ってはいるのだが、真っ正面から力でがんがん攻めていくのではなくて、ひらりするり、しゅっ、すぱぁん!みたいなかんじで、思いもよらないところから思いもよらない攻撃が急所めがけて繰り出されるのです。かわしていなしたときにはもう殺してますみたいな、乱暴な言い方すればそんな印象。
太極拳と八卦掌はどちらも内家拳とはいえ、股関節の使い方など、太極拳ではやったら注意されるような用法が八卦掌では必要なことだったり、びみょうに混乱したりもしました。八卦掌の特徴でもある円周上を巡る歩法(「走圏」という)では、円の中心に対して自分の意識を同化させるということを目指すのですが、なにしろ慣れない動きなのでときどきすっ転びそうになったり。
2時間ぽっちでしたが、自分の身体を動かしてみて、戸惑ったりよろよろしたり「おっ!」てなったりすることは、やっぱり気持ち良かったし、おもしろかった。私は基本的に武術ヲタじゃないですし、ストリートファイトで強くなってやるんだぜとも思ってないし、学習したことを活かす目標・目的としての段位取得とか大会出場とかにも興味がありません。そういうことを目指してがんばっていた時期もあったけど、がんばりすぎて、他人の思惑に振り回されて、嫌気がさして、あげく10年間太極拳を休んでしまいました。
考えてみれば、他者から学ぶことを通じてこの厄介な「私」を矯めたい、と思って始めたのが太極拳でした。五黄土星の生まれでいつでもどこでも「中央」に居られないと心身共に調子悪くなっちゃうんだからしょうがないというのはあるにしても、それほど俺様で王様で傲慢で自己中心で頑固一徹な人間なのです。八卦掌の、「まず他者がいる」「自らの身体を通して大地と対話する」という意識、調和しつつもとどまらず、固まらず、劇的に変化してゆくことを恐れない本来的に自由なありようからは、改めて学ぶところが大きいんじゃないかなと感じました。
に、しても。
ずーっと太極拳だけやっていきゃあいいやと思っていたのに、この歳になって(同じ内家拳とはいえ)まるでちがう武術を一から始めるというのはなかなか冒険だなあという気もします。
やっぱり自分という者は「考える」だけではだめで、そこに「動いてみる」が伴ってはじめて「学ぶ」になるのでしょう。
そしてそれが「あらおもしろい」と思えばやっぱり一秒たりとも躊躇せずどんどんやってみちゃうのです。
そこらへんが、石井ゆかりちゃん曰くところによる「頭脳の星座であると同時に感性の星座」「アタマで考えることとカラダでキャッチしているセンス、つまり感覚が、すごく密接につながっている」乙女座生まれの所以かも知れません。
八卦掌のなんたるかについては語る資格がまったくございませんので王家衛が映像化するとだいたいこんなもんでした、てことで『グランド・マスター』終盤の、宮若梅(章子怡)と馬三(張晋/マックス・チャン)による八卦掌VS形意拳ガチ対決シーンの動画なんかどうぞ。
上の動画のタイトルでは「張震」になってるけど「張晋」の間違いです。
そして1998年、張晋24歳のときのすんばらしい太極拳の表演動画もどうぞ。