紀元前3世紀末、秦の始皇帝は中国史上初の統一帝国を創出し戦国時代に終止符をうった。しかし彼の死語、秦の統制力は弱まり、陳勝・呉広の一揆がおこると、天下は再び大乱の時代に入る。──これは、沛のごろつき上がりの劉邦が、楚の猛将・項羽と天下を争って、百敗しつつもついに楚を破り漢帝国を樹立するまでをとおし、天下を制する“人望”とは何かをきわめつくした物語である。
そもそも「人望」とはなんでしょうか。
劉邦は人望を得て勝った。
項羽は人望を得られずに負けた。
『項羽と劉邦』というお話を雑にまとめれば、そういうことになってしまうようなのですが。
『項羽と劉邦』で司馬遼太郎が彫琢する劉邦は、大器の片鱗を覗かせながらも、概ね、痺れるようなだめ人間です。
その「だめ」がなんというかもうはちみつのようにあまい。いっそ媚薬といってもいいくらいです。
「やれやれ、ほんとに劉邦さんはだめなんだから」
「自分がいなきゃなーんにもできないよね、劉邦さんは」
とかなんとか苦笑しつつも嬉しくてぞくぞくしながら劉邦の「だめ」という蜜を貪り、気持ちよく「だめ」に溺れ「だめ」に籠絡されてしまう、そんなばかものどもが全巻通じて跡を絶ちません。
その「だめ」こそが、蕭何の言を借りて司馬さん曰くところの「類のない可愛気(かわいげ)」。
劉邦というひとが生まれながらにそなえている手管です。
しかし本人は手管などとはさらさら思っていない。たいそう無邪気にかつ無自覚に世にも狡猾なことをやってのけるのでますますたちが悪い。
『項羽と劉邦』において、
「ひとびとは如何にして心配するのを止めて劉邦を愛するようになったか」
ということについて、つまり、おもに劉邦の人望つうか天性つうかだめさ加減つうか可愛気が如何にひとびとの目を眩ませ狂わせていったかということについて、原文抜き書きながら辿ってみようかなあとかおもってこんな感想文書き始めたのですがのっけから、
「パン(邦)」
は、にいちゃんという方言で、ときにねえちゃんというときも、パンという。劉邦とは、
「劉兄哥(あにい)」
ということであった。
性別からしてよくわからないことになっていてこまったものです。
『史記』によれば劉邦の字(あざな)は「季」。
「季」とは、植えた作物が実って収穫する、それぞれの季節の「すえ」を意味するのだそうです。
百敗ののちに巨大な一果を得たという点では、正しくその名が指し示すとおりの人生だったのだなあと思います。
しかしとりあえず劉季とは、「劉さんちの末の子」ということでしか無い。本名が「あにき」で通り名が「末っ子」です。「劉邦(劉兄哥)」という仲間内の呼びかけが本名として定着してしまったということなのですが、佐竹靖彦氏は『劉邦』で、
「かれは本来、季という本名をもっていたが、亭長になったのを機会に季を字とし、本名は邦であると称したのであろう」
としています。
「劉邦という名前はいかなる正史にも載っていない」
「劉邦という名前は近現代になってはじめて人びとの口に上るようになったのであり」
「劉邦の本名とされる邦の名の由来には、触れるべからざる秘密が隠されている」
(『劉邦』佐竹靖彦著・中央公論新社刊)
触れるべからざる秘密。
それは「劉邦」という名が、「よくいえば任侠の徒、悪くいえば群盗の一員であったことを示唆する」ということ。そんな外聞の悪い名を、漢王朝初代皇帝の正史に記すわけにはいかなかったのではなかろうか──ということです。
しかしそれもすべてのちの世の話。沛県豊邑中陽里(現在の江蘇省徐州市沛県)の農家に生まれた劉邦さんは、「龍の子」と噂され、「龍顔」といわれる立派なお顔をぶらさげてお育ちになり、ひげと背丈ばかりがむやみと伸びてしまいました。家業をきらってぶらぶらごろごろと日を暮らし、ごろごろしているうちになんとなく人気が出てしまって、兄哥兄哥と慕われます。
劉邦の最初のプロデューサーともいうべき能吏・蕭何は、出会った当初、劉邦のことをどうもあんまり快く思っていなかったようでした。
なんだかみょうに気に障る。
不愉快である。
なのに目を離せない。
気になってたまらない。
この男はいったいなにものなのだろうか。
この男は自分にとって、いったいどういう意味をもった存在なのだろうか。
もちまえの生真面目さで律儀に分析と考察を重ねていく蕭何。いやいやそれはつ恋ってもんじゃないんですかとか、つい思ったりするんです。優等生のメガネっ娘委員長が遅刻早弁喧嘩万引常習の問題児を真人間にしようとがんばっているうちにうっかり惚れてしまいましたみたいなね。蕭何の劉邦への思いには、ちょっとそんなテイストもあったりなんかします。
劉邦は行儀がわるく、すこし酔えば横に長くなって肘枕をし、ときどき癇癪をおこすと、その男を口汚くののしった。類がないほどに、言葉遣いが汚かった
類がないほどに汚い言葉遣いの具体例は書かれていませんが、
(あの下品さが、たまらなくいやだ)
と、蕭何はおもっている。
と、劉邦が気になってたまらない蕭何ですらそうおもっているくらいだからどうせ性的なこととか放送できないようなことをあけすけにまくしたてていたりするのにきまっています。
しかし劉燁さんが劉邦を演るとなるとどうもほよよんとした風情が勝っちゃって、言葉遣いの汚さとか行儀の悪さとか下品さとかどすけべさとかがうまくイメージできません。『王的盛宴』ではそのあたりいかがなっているんでしょう。「他妈的」とか「兔崽子」的な台詞を吐いておられるとのことなのですが。
イメージできないといえば司馬さんがつかう比喩もです。ときどきアバンギャルドすぎて宇宙に行ってしまうのですが、
遠目でみると、劉邦の体全体が鰻の化物が立って歩いているように見える。
立って歩く鰻の化物ってなんだよ。
まっくろで、ぬるりつるりとしていて(「つかみがたい人物」の比喩ということかしら)、でもふだん立って歩く習慣の無い鰻がうっかり立ちあがってしまったものだからどっかぐらぐらしててバランス悪い的な。
そういうものでしょうか。
のちに項梁(項羽の叔父さん)が劉邦を評して曰く、
(ああ、あの背の高い男。……)
項梁は、うらやましいような劉邦の美髯と堂々たる体躯をおもいうかべた。
ただ、体が長いわりには、上と下とがどこかちぐはぐで、風が吹けば倒れそうな感じでもあった。
やっぱりぐらぐらしています。
龍に似た風采といえばなんだかかっこいいかんじですが、龍だってじっさい立たせてあの短い足で歩かせてみりゃ中国の獅子舞的な、どっかおもしろかわいい生きものでしょう。
(あいつがきた)
ときがときだけに、蕭何はうんざりした。
そんな鰻の化物的なものがここ一番というときにぐらぐらと門口にあらわれて「ごめんください」とか挨拶してたら蕭何だってうんざりかもしれません。でもそんな蕭何も、
(劉邦には徳というほどのものはないが、ちょっと類のない可愛気がある。このことは、稀有なものとして重視していいのではないか)
と、思いはじめた。
絶賛籠絡されつつありました。
聡明な蕭何ですらそうなのですから況んや夏侯嬰をや。
「あっしが居なければ、劉あにいはただの木偶の坊ですよ」
夏侯嬰のこの言葉こそが、劉邦らぶーなひとら全員の気持ちを代弁しています。
劉邦ってひとは、身体ばかりじゃなく、全般的にすごくぐらぐらしていたのでしょう。
美々しく立派なビジュアルをもっているくせに、不用意に無邪気で無自覚で素っ頓狂なことをやらかすのであぶなっかしくて見てらんない。
でも、自分が居れば。
自分が秘かに支えてやれば、このひとはきっとなんとかなる。
そう信じてるひとがまわりにいっぱいいて、彼らひとりひとりの「あっしが居なければ」──つまりそれが「人望」というものなのでしょうが──に感応してすなおに股ひらいちゃうようなところが劉邦にはあったんでしょう。傍でみてるとはらはらしちゃうという点で項羽と劉邦は似ているが項羽の場合は「ひとり」で充溢している。みっしり詰まった重たい「ひとり」を抱えてだれよりも速く疾駆する筋肉をもっている。支えてもらう必要など無い。ていうかなまじっか支えてやろうとすれば瞬時に薙ぎ倒され踏み殺されてしまう。
でも劉邦はぐらぐらしていた。
「人望」というもののつけいる隙があった。
(劉邦は、空虚だ)
だからいい、と蕭何は思うようになっていた。
秦朝末期の混乱のなか、沛という生まれ故郷を護りたいという強い意志を、蕭何はもっていました。
当初、地元のひとらの人望は劉邦でなく、すぐれた吏である蕭何にこそあった。
けれども蕭何は、自分はその器では無いと見切っていた。
お天道様の下で脳天気にごろついている劉邦が、果ても無いようなうつろさをかかえていることを蕭何だけが知っていた。得体の知れない、でも滴るようなチャームをもつこのごろつきを、「天命」の名のもとにひとかどの人物に仕立て上げる。その役を果たせるのは自分を措いて他に無いことを、蕭何だけが知っていた。
蕭何が「だからいい」と思った、つまり蕭何が劉邦という目に賭けたそのときに、遠い未来の劉邦の勝利が決まったともいえるのではないでしょうか。
劉邦というのは概ねだめ人間ですがすぐれて感覚的なひとです。
といって、劉邦という男は、いわゆるあほうというにあたらない。どういう頭の仕組みになっているのか、つねに本質的なことが理解できた。
むしろ本質的なこと以外はわからないとさえいえた。
本質的なこと以外はわからない。
ものごとの解はわかるが式を立てて説明しろとなるとできない。
式を立てるのは自分の仕事じゃないからどうだっていい。
最終的に正しい解にたどりつく道を選びとれさえすればそれでいい。
時機と場を得ればそれなりに事を為してもみせる。泗上の亭長さんにしてもらえば見栄はって立派な冠を作って、はりきってお仕事に励んだりします。そのいちいちがなんだか可憐でこまってしまう。
父や兄に疎まれ、厄介者扱いされて、本人ももしかしたら自分はこのお父さんの子じゃないのかもしれないとおもいつつ、やくざな道に足を踏み入れ、きまった仕事にもつかず、無為に日々を暮らしていた劉邦。
のんきそうにみえたとしても、焦慮も不安もそれなりに抱えて生きていたんじゃないでしょうか。
それが豪奢な大器であればこそ、「未だ盈ちていない」ことがつらくも虚しくも感じられるということだって、あるんじゃないでしょうか。
劉邦自身はそれを自覚していたかどうか。
大法螺を吹きながらも、自分がそれほどの大器であることを、じつはよくわかっていなかったのかもしれません。
己の美しさを器自身が知らず、汚れたままに、ただそこにある風情。
そこにせつなさをみいだす人間だけが、どうにかこの美しい器を自分の手で盈たしてやりたい、盈つるさまを見てみたい、というやむにやまれぬ衝動をおぼえる。
そんな劉邦は、項羽の目に、どのように映っていたのでしょうか。
上巻の後半で劉邦は項梁率いる楚軍に身を寄せ、そこで項羽と出会います。
のちに生涯の宿敵同士となるふたりには、楚軍の将軍として滅秦の旗のもとに手を携えて戦っていた時代があったのです。
小学生のときにジュニア向けにアレンジされた項羽と劉邦のお話を読んで、仲良しのふたりだったのにどうして最後は血みどろの殺し合いになっちゃったんだろうと、えもいえず悲しくなったものでした。
ひとは変わる。
その思惑を大きく超えたところで、あともどりのきかない齟齬が生まれることだってある。
かつては盟友でもあったふたり、という美しい前提があればこそ、のちに展開される彼らの死闘が仄かに甘美な色を帯びて映ったりもするんだけれど、まあ小学生のころはそんなことまでわかりゃしなかった。
出逢った当時、項羽は劉邦をこんなふうに見ています。
(おもしろいおやじさんだ)
と、項羽はおもわざるをえない。かれは劉邦という男がきらいではなく、なにか、自分とはまったくちがう仕組みの男だと思っていた。劉邦はかれとちがい、しばしば秦軍に敗けているが、敗けるということによほど鈍感なのか、いくら敗けても、大きな片頬に小鳥の糞のような白い微笑をたえずくっつけて、顔色の変わることがなかった。
劉邦が感覚的なら項羽は感情の塊のようなひとで、己の信奉する「美」にかなうかかなわないかで物事の好悪をきめるところがある。項羽の劉邦に対する印象が「きらい」から出発していたのなら、ふたりの関係もちがうものになっていたのかもしれません。でもそうではなかった。
項羽は劉邦をばかにし、侮りつつ、しかし憎めず、なんだかおもしろく思っていた。
自分とはまったくちがう相手のしくみ。それをものめずらしく眺めながらも、どこかで「勝てない」と、無意識にしろ感じていたのじゃないでしょうか。そういう意味では項羽もまた、劉邦の「可愛気」に殺られたひとりといえる。なにしろおそろしい仔です、劉邦。
劉邦という男、ならびにたちの悪いその「可愛気」を危険なものとみなしていたのは、楚軍のなかでは項羽の参謀である范増ただひとり。
項羽と范増による劉邦の捉え方のちがいが、つづく中巻で語られる「鴻門の会」の伏線にもなっています。
じつのところ范増が退却を説いたときは項羽はかならずしも怡々とせず、むしろ復讐をとなえ、陳留城など踏みつぶしてしまおう、などとつぶやいたりしたのだが、劉邦の顔をみるといきなりその説に従ったというのは項羽の性格に欠陥があるのか、それとも相手の劉邦の人柄にえたいの知れぬなにごとかがあるのか、あるいは項羽は劉邦に魅かれるところがあるのか、いずれにせよ、このことは黒い翳(かげ)りのように、范増の脳裏で消えがたいものになった。
項羽は劉邦に魅かれるところがある。
范増の見解を借りて、さらっととんでもないこと書いていますが司馬さん。
正しく「魅かれている」としか表現できない、そうとしかいえないような愛憎と執着と情熱に彩られた軌跡を、このあとの巻を通して、ふたりは描いていくのです。
(つづく)
(※太字引用部分はすべて司馬遼太郎『項羽と劉邦』による)
【参考】:髭姫様・序説。
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司馬 遼太郎
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