昨日、某太極拳大会の競技会において三十二式太極剣の個人表演をしました。
有り体にいえば、選手というやつをやりました。
90年代に一度、全国大会の選手というやつをやった経験があります。
経験としてはおもしろかったが、
「もっともっと精進して、競技会にいっぱい出て、良い成績を上げて勝ち上がってやるんだあ!」
という方面にはその後、進みませんでした。
それをやろうと思ったら、自分ひとりが楽しければ良い、では済まなくなるのです。所属団体とかお教室とか先生の体面とか面子とか、あといろんなお付き合いとか、そういうめんどくさいものが絡んでくる。それはほかのお稽古事でも、また仕事でも、なんでも一緒なんでしょうが。でかい声出して自己アピールしちゃう奴が正義、みたいな局面も見ちゃうしさ。私、それはすんごく苦手というか、まあだいきらいだし。
今回はそこまでがつがつしたもんでも無くって、
「選手やってくれるひとが少ないのよ。あなた出てくれない?」
「いっすよー」
ぐらい簡単なかんじで受けました。
ちょうど一年前のいま時分に
新しい剣を買ったんですけど、その剣で稽古してきて1周年という記念的な意味もあり。
それ以上に興味があったのは、『藍宇』とそれにまつわる諸々の出来事を経た自分が、太極拳という表現においてどう変わったのかということでした。
英語のartには「知識ではなく経験を通じて習得するわざ」という意味があります。
その「わざ」を表現するとき、そこに出るのはやっぱり「自分」というものだと思います。
文であれ武であれ、ざっくりいってしまえば「自分を表現すること」です。「わざ」を磨くことは勿論とても大切だけれど、日々の営為のなかでなにを見聞し、それらによってどのように感情が揺れたか、その積み重ねによって醸成されたものが加わって、だれでもない「自分」というものが、「わざ」の向こうにあらわれてくるのではないでしょうか。
だから泣いたり笑ったりは、しないより、たくさんしたほうが断然いいなあ、と。
太極拳も太極剣もだいたい自分と同じくらいの身長の、インビジブルな仮想敵というものを設定して動きます。剣の先には常にみえないだれかがいて、そのだれかを斬ったり突いたりしているわけです。血生臭いといわれりゃそうですけど、そのみえないだれかに向ける視線は常に平易で、澄んでいます。目と身体と意識を調和させること(「眼法」といいます)ができてはじめて最大の頸力が発動するといわれていて、ほんとうにこれは難しいんですけど。
せめても、みえないだれか、というかそのだれかの向こうに、『藍宇』を知ってからはいつも、茫洋とひろがる青い空をみているような気持ちで稽古をしています。
ただなんとなく仰ぐ空ともそれはちょっとちがっていて。
「みえないだれか」は、それもおそらく「自分」ということなんでしょうけど。
んで、昨日。
表演そのものはどうにか無事に終わり。
空がすがすがしくみえたかといえば、んー、ちょっとびみょう。
びみょうだけど概ね楽しめたからいいや。
とか思ってたら見ず知らずの方に「良い剣を見せていただきました。どなたに学ばれましたか」と声を掛けられてちょっとびっくり。
むかしむかし、自分が最初に太極剣を習った老師は
この方です。厳しいし、辛辣だけど、すごくおもしろいおひとでした。いまだに老師に教えていただいたことを反芻しながら稽古しています。出来の悪い生徒ですいませんてかんじでしたが、だからこそいま、自分の表演を見て、先生はだれかと問うていただいたことが嬉しかった。
やっぱり剣の先には青い空があるってことだな。
なんてね、思ったりしましたよ。
競技会のあとは中華街の関帝堂書店さんで
みんきぃさん、遵命さんとプチオフ敢行しまして。これまた楽しかった。ありがとうございました。いろいろいただいてしまいました。
遵命さんが下さったおばけのメレンゲ。
かわええ!
そして
キャーおふろの捍東×藍宇シール!
貼りたい!
これは貼るしかあるまいて!
でも風呂場に貼ったら湿気でだめになりそうなんで絶賛悩み中。