もとはといえば獣ゆえ。──『孽子/ニエズ〜Crystal Boys〜』
2012.06.29 Friday
一人の男性を愛してしまった少年は、激高した父親に家を追い出されてしまう。少年が流れ着いた台北市の新公園は、同性愛者の集まる「夜の王国」だった。様々な出会いと別れを繰り返す中で、少年は嵐の晩に伝説の男と邂逅する。王国に語り継がれる愛と悲劇の神話は、少年の運命までも大きく変えてゆく……。
「孽(nie)」とは見慣れない文字である。
1 庶子。妾の子。
2 妖怪。魔物。怪異な災い。
3 悪因。禍根。罪業。罪障。
4 不孝。
(中日大辞典・愛知大学中日大辞典編纂処編)
そういう意味がある。
「孽」をつかった熟語も、漏れなく滅入るような意味を与えられている。
『孽子』は、白先勇(バイ・シェンヨン)の同名の小説に基づく2003年度台湾制作のドラマ。
『藍宇』同様、病む向きはどっぷり病んでしまう作品らしいが、同志片事情にはまったく疎いので存在そのものを知らなかった。「同志片でございます」とか直球投げてこられるとなんだか拗ねてしまって手を出したくなくなる、おまえ『藍宇』はどうなのだといわれればあれはそもそも自分のなかじゃ「いわゆる同志片」に仕分けされてないので齟齬など無いという至って我が儘な仕儀。要はジャンルとかどうだって良いんだ愛のかたちなんかなんだって良い。男と男だろうが男と女だろうが女と女だろうが。人間対人間だろうが人間対非人間だろうが非人間対非人間だろうが。誰かが誰かと、なにかがなにかと向き合って、想いだの言葉だのからだだのをぶつけあう。それだけでいいい。そういうシンプルなことを衒わずふつうに描いている物語がいい。それしか求めない。
幸いなことに『孽子』はそういう物語だったので、拗ねることも無くすんなりと没入できた。
全20話という尺のなかでひとびとは邂逅し、怒りや哀しみを滾らせ、絶望し、傷つけあい、笑って語って食べて、ねむり、恋をして、生きて病んで死んでいく。出てくる男の子たちは皆そこそこにかわいいが、己のかわいさにほとんど凭り掛からないまま、70年代初頭の凍える町に放逐された「罪の子(=孽子)」としてさらりと生きている。最終巻に収録されたメイキングで素顔をかいまみたら、キャラクターをかなぐり捨てていち役者に戻った彼らは至極真っ当にいまどきの男前揃いで、いっそ不思議なようだった。それくらい、ドラマのなかでそれぞれの役を生きていたということかも知れない。
主人公・阿青(=李青)の少年時代から物語は始まる。愛想が無くて寡黙で、でも芯はやさしい阿青。ハモニカを吹くのがすきな阿青。退役軍人の父。旅回りの歌舞団の若いペット吹きに惚れて家族を捨てて去った母。あっけなく死んだ最愛の弟。やがて恋に落ちる同学の少年。序盤は阿青をめぐるこもごもが淡々と訥々と、緩慢なペースで語られていく。この語りの速度は最初こそやや持て余すのだがだんだんと癖になる。父親に家を追い出された阿青は台北の同性愛者たちの「王国」である新公園にたどりつき、そこから物語は大きく動き始める。やはり孽子でもあるようなひとびとに出逢い、阿青はそれぞれの人生に関わってゆく。新公園に集まる少年たちの写真を撮り続けている郭老。日本人の父を捜すために日本へ行くことを夢見ている小玉。やくざものの兄の暴力を受けつづける老鼠。まじめで純情一途な呉敏。阿青、小玉、老鼠、呉敏のグループを率いる楊師匠。暗い小径や美しい四阿や赤い蓮の咲く池を備えた新公園は、『真夏の夜の夢』に出てくる恋人たちの森さながらにロマンティックな風情。そんな場所に相応しく、そこにはひとつの伝説がある。
高名な将軍の御曹司・龍子と粗暴な孤児・阿鳳の、語り継がれる悲恋の物語が。
龍と鳳という生きものはそれぞれが王であり神であるようなものだから、並び立つことはあっても、どちらかがどちらかに臣従することなどありえない。「たくさん愛したほうが負け」という法則があるのだとすれば、敗北即ち死でもあったこの恋はまこと龍と鳳に相応しい。梧桐にあらざれば止まらず、楝実にあらざれば食わず、醴泉にあらざれば飲まず。そういう鳥を情で縛ることはできない。鳳自身が愛する相手に縛られたいと心底望んだとしても、鳳という生きものとしての性がそれを裏切る。鳳を縛ろうとおもえば殺すしか無く、殺して己の手中におさめたところでただ抜け殻を抱きしめるばかり。いくたび命を奪われても不死の鳥は再生し、朱の焔を纏って高みから冷ややかに龍を見下ろす。阿鳳という、八方破れだが高潔で誇り高い野生児は、野卑で下品で魁偉で不快ですらあるのにたいそう魅力的で、ひきかえ龍子のほうは結局狂うことも死ぬこともできず、錆びついた時間をかかえたまま生きつづけている。
嵐の夜、そういう龍子に阿青が出逢う。
龍子は阿青のなかに阿鳳の面影を見出し、かつて喪った愛をもう一度、とりもどそうと試みる。
けれども阿青は籠の鳥に甘んじることは望まない。
与えられるばかりの安閑な暮らしを捨てて、冥い森へと歩みだす。かつて阿鳳がそうであったように。
だれしもがそのひとだけの森を持っている。あらかじめ背負わされた罪をひきうけ、荊を掻きわけて傷をつくり、風を読み、想いを研ぎ澄ませて、みえない道をさぐっている。私たちはすべてひとりの孽子なのであり、そしてそれを慙じることは無いのだ。いつかだれかに逢えたら、そんなふうに伝えたい。そう思いたくなる物語だった。
范植偉、飾演李青
金勤、飾演小玉
吳懷中、飾演老鼠
張孝全、飾演呉敏
余談ですけれど。
呉敏を演じた張孝全(ジョセフ・チャン)の風貌がどこか劉燁を彷彿させるせいもあるけれど、呉敏とそのパトロン張さんの関係にはほんのわずか、藍宇と陳捍東が重なってみえた。
張さんのために身も心も捧げている呉敏を(張孝全が精悍な美青年なので、裏腹なあどけなさ、無器用なけなげさがひどく沁みる)、別の少年に心を動かした張さんは着の身着のままで追い出し、そのせいで呉敏は自殺まで図る。しばらくして張さんは卒中で倒れ、半身不随になってしまう。そこではじめて、傲慢な張さんもまた、同性愛という「罪」に怯え慙愧して生きてきた孽子であることがあきらかになる。かつて受けた酷い仕打ちも忘れて、かいがいしく張さんの介護をする呉敏。たくさん愛したことで負けて、けれども最後の最後で勝ったのは呉敏かも知れない。呉敏はしあわせだろう。しあわせにきまっている。
many thanks to:“BLOWN UP CHILDREN”, performed by YOSHII LOVINSON