蛇果─hebiichigo─

是我有病。

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仔犬目の刺客。
殿方のお顔は猿系もしくは爬虫類系がすきです。仔犬系男子には興味が無かった。
むしろ積極的にぜんぜん無かった。
うわめづかいで小首かしげたりされると、
「ぶりぶりしてんじゃねえ!」
とか足蹴にしたい感じだった、むしろ。

それが『藍宇』で劉燁さんにもってかれてこのざまです。いまじゃ積極的に仔犬系男子が気になってまう。そんな自分にとっての2010年上半期日本に於ける仔犬系最右翼。


 NHK大河ドラマ『龍馬伝』の岡田以蔵。
 佐藤健(たける)くんです。



『龍馬伝』は正直主役のひとがかなり苦手でございまして(F山さんのファンのひとごめんなさい)、かつドラマとして手に汗握っちゃうかと言われりゃそれもびみょうなとこです。
ただただこの子ひとりのためだけに、とりあえずいまは視聴しています。


ご存じのかたはご存じですが幕末四大人斬りというのがいます。薩摩の中村半次郎、田中新兵衛、肥後の河上彦斎、そして土佐の岡田以蔵です。
これまで映画やテレビドラマでいろんなひとが以蔵を演じてきましたが、マイベスト以蔵は1974年度NHK大河ドラマ『勝海舟』に於ける萩原健一の以蔵で、これを超える以蔵はたぶん永久に出現するめえ──と思っていましたが健くんのおかげで正直足元がぐらついていますの。





自分のなかでは以蔵は美形であってはならねえという不文律があって、だから健くんはそれだけでNGなのですが、この際泣く子と仔犬には勝てません。

だけど、以蔵はもうすぐ死んじゃいます。史実だからしょうがないですが残念です。健くん亡きあとの萌えはムネムネ(後藤象二郎)+虎ちゃん(井上聞多)のチームちりとてに託したから!

(余談ですが、1997年のTBSの正月ドラマ『竜馬がゆく』で以蔵を演ったのは長瀬智也でした。このときの武市半平太は椎名桔平で、ふたり並んだときの絵としての美しさは『龍馬伝』の武市×以蔵を凌いでいたと、個人的には思います。)


華流メインのこの妾宅でなんでこのエントリかといいますと、漫画家のかれんさんがご自身のブログで以蔵@健くんの美麗イラスト(拷問後)をお描きになってて、それ見ておもわず前のめりになっちゃったからです。
(こちらからご堪能くだされ→

かれんさんは2004年度NHK大河ドラマ『新選組!』で覚醒(笑)して以来、土方歳三並びに新選組、そして幕末という時代とそこに生きたひとびとについて、虚実双方からたいへん熱心に勉強なさってます。
その結実が、新選組副長土方歳三の放蕩ヤング時代を描いた作品『歳三梅いちりん〜新選組吉原異聞』(上下巻/集英社クイーンズコミックス。丁稚奉公時代を描く『月への恋文』も収録)。

これまでも周期的に新選組ブームとか新選組バブルみたいなものが起きてきましたし、いまでは恒常的萌え需用に向けての「新選組」という商品が流通・消費されています。しかし作家自身の愛と情熱がストレートにアツく伝わってくる血肉ある表現というものには、それらとは一線画した清々しさ、凛凛しさがあります。
小便臭い小娘の時分から歳三さんに岡惚れなわたくしとしては、やはりそうした作家さんというのは素通りが出来ぬもの(『北走新選組』の菅野文さんとか『ひなたの狼』の斎藤岬さんなども、はい勿論)。



んで、「仔犬目の刺客」というならばなにはさておき劉燁さんでございます。
抜きん出た剣才ゆえに他人の血で己の手を汚す宿命を、そのビジュアルが率先して裏切っていくあたり、かれんさんの御言葉を借りれば「不憫の煉獄」でのたうつ在りようというものが、刺客という職業にはやはり不可欠な萌え要因であることよなあ、と劉燁さん見てると思います。








今年の1月に、

「『始皇帝暗殺 荊軻(荊軻傳奇)』の全話感想どうにかしてえなあ」

とつぶやいて、なんだかんだでつぶやきっぱなしになっていました。
情報発信という点ではてんで役立たずのチラ裏ブログですが、「荊軻」という検索ワードでご訪問くださるかたがあんがいたくさんいらっしゃるんだ、ということが最近わかってきました。ほんとにありがとうございます。そろそろ腰据えて感想文書き始めたいと思います。といっても書くのは私ですので「腰据えて」の中味も推して知ってください(笑)。
| 13:28 | 荊軻傳奇。 | comments(4) | - |
残酷なる神の被造物として。
 別冊文藝 萩尾望都
 少女マンガ界の偉大なる母




萩尾望都という神に出逢っていなければいま此処におらぬも同然の身である。なので『藍宇』の感想文(これとか)のなかでも頻繁に『トーマの心臓』を引き合いに出してきた。出してはきたが、どうして自分のなかで『トーマ』と『藍宇』がこうも親密に(あるときは鏡像のように)寄り添ってしまうのかがどうもよくわからない。手掛かりとも云えぬほどのちいさな棘のようなひっかかり、答えに至るためのしるべのようなものが、しかしこの一冊のなかにはいくつか散らばっている。たとえばマンガ研究者であるマット・ソーン氏が2004年12月に行った萩尾望都へのインタヴューにおいて、『トーマの心臓』のテーマはなにかという問いに対して神答えて曰く。


テーマはですね、いつ人は愛を知るのか、愛に目覚めるのか。だから最初に手紙を残して死んじゃうというむちゃくちゃな設定を若さの勢いでやったが、たとえば30過ぎて描いたとしたら、もっと死ぬ理由をいろいろこじつけてたかもしれない。でも当時は「理由無く死んでもいいさ」と思ったわけです。逆に考えてみればそれが、最後まで「なぜ」というのが残るから、作品の謎の部分が作品を支えてくれるみたいな作りになりました。



「作品の謎の部分が作品を支えてくれる」

という点だけを見ても『藍宇』は非常に『トーマ』的だ。
未だ地中に埋もれたままの膨大な原石を暗示しつつ、目に見えるものと目に見えぬもの、見えないけれど存在しているかも知れないもの、見えていても触れられないかも知れないもの、謎はすべて謎のまま無造作に抛って顧みないかのような『藍宇』。
明快な絵解きよりも不透明な謎を選択するのが私の生理で、生理のままにその不透明を探って穴でも森でも水でも、冥い深い底の底へと潜っていきたがる。映画の不可解さを原作で(或いは映画から削除された場面で)補完してああそういうことかと納得する、といった行為にはほとんど興味が無い。そういう納得で完結して、
「でも、なぜ」
とも問わず生きてゆけるのならそもそもこんなふうな零れ方をせずに済んだ筈だし、零れていなければ萩尾望都という神の手に触れることも無かった。


『トーマ』をはじめて読んだとき。
『藍宇』をはじめて観たとき。
胸に兆した「なぜ」という衝動はこわいほどに似ている。
それはつかみどころの無い、巨大で剣呑であたたかくてつれない、「愛」というものへの畏怖による。愛を知る。愛に目覚める。『トーマ』ならユリスモール・バイハン、『藍宇』なら陳捍東がその役を負っているのだけれど、翼無き彼らに愛という謎を投げかけて「理由無く」彼岸へと去る翼持つ男の子たち(トーマ・ヴェルナーと藍宇)が愛の体現者であったのかといえば、それもよくわからない。死んだトーマの年頃に私も「理由無く死んでもいいさ」と思ってはいたが、藍宇の死の年齢の私は世界から零れていることも知らず世界にしがみつくことばかり考えていた。理由無き死への誘惑を感じつつ、理由無き死を心底怖れていた。理由があったって無くたってもしもあのとき死んでいたとして、自分の死に顔は藍宇ほどものんきに美しくあれただろうか、などと埒も無いことをこのごろよく考える。死というものにそもそも理由なんか無いのではないかと考える。
同様に愛もまた。


萩尾望都作品はほぼコンプリートしているのだが一作だけ、連載時に最後まで読み通せず未読のままになってしまった作品がある。『残酷な神が支配する』。





主人公の少年が義父から受ける凄まじい性的虐待の数々、それによって精神の均衡を崩していく彼のいたましさを直視できず、連載誌『プチフラワー』そのものを買うのをやめた。萩尾望都作品を拒絶する、などという行為をまさか自分がしようとは思ってもみなかった。ああだめもうこれ以上読めないと投げ、投げたあとは自己嫌悪で死にたくなった。描写がハードだから読めなかったというより、自分と自分の二親との関係が透いてみえて、そのまま見ていれば、見ないほうが良いものまで見てしまいそうな気がする。だから読まないことにした。


インタヴューのなかでマット・ソーン氏は、『トーマの心臓』に於けるユーリの受難について、
「僕は当然『これは性的暴行を受けたんだ』と捉えたんです」
と述べ、萩尾望都は、
「あ、そうですね」
とそれを肯定する。

マット 『残酷な神が支配する』が出たときは、「これは『トーマの心臓』の大人版だ」と思いました。
萩尾 はい。コンセプトの段階でキャラクターが重なるもので、すごく困りました。

これらのやり取りを読んではじめて、自分がどうして『残酷な神が支配する』を最後まで読み通せなかったのかがわかるような気がした。
わかって漸く『残酷な神が支配する』を最後まで読み通そうという気になれて、昨日とっとと大人買いした。
『残酷な神が支配する』を完読したからといって『トーマ』の謎が解けるというものではない。
物語の貪欲な消費者の、謎という生理を選択する者の野性が、『トーマ』という森に未だ知らぬ枝道があることを告げるばかりだ。


でも彼は知っていた
ぼくが背をむけても 打ち消しても
やはりそれがなければ人は生きていけないと
ぼくもそれを求めていると

だからあの恋神(アムール)は
あんなに明るい目をしていってしまったのだ



『恋の風景』の天使は盲目の少女を救ってその翼をすべて喪う。
『藍宇』に於いて天使は「彼」に片翼を差し出す。
人間と翼を分かち合ったがために、天使は蒼穹からの失墜をするのだろうか。
異性を愛することと同性を愛することにもしも違いがあるのだとすれば、そういうことでもあるのだろうか──などというこれも、数多在る枝道のひとつなのだ。
野蛮な直感の導く儘に荊だらけの枝道を蹌踉と彷徨って辿り着く、「その先」があること。
残酷な神が片手を挙げて指し示す愛の謎、それを貪る旅に果てなど無いこと。
そしてきっと、自分は迷いはしないだろうと。

そういうことがいまは嬉しい。
| 10:32 | 藍迷。 | comments(2) | - |
There's more ways than one to kill a cat.
つい3ヵ月前のひなまつりにドロップされたばかりだというのに、『好奇心は猫を殺す』の日本版DVDが既にどこにも売っていない、というお話をついさっき伺いました。
調べてみました。


え、ほんとですよ。

密林では、

再入荷見込みが立っていないため、現在ご注文を承っておりません

の赤文字が出ています。

出版元、販売元での在庫切れ、重版、絶版、生産予定が未定などの理由で入荷予定がない場合。もしくは、予約を締め切った商品。

という意味だそうです。


発売・販売元のCCREという会社のHPに行ってみました。
そこでニュースを読んで、こちらの会社が3月2日(『好奇心は猫を殺す』発売前日)に東京地裁に民事再生手続開始の申立てを行い、3月末日に再生手続廃止を受けていた、ということを知りました。
びっくりしました。


初版の本数が、そもそもさほど多くはなかったんでしょうかねえ。発売ちょっとあとに密林でも一時的に在庫切れになってるときがあって、
「おおお、絶賛売れているわ兄貴」
と心密かに嬉しかったものですが。発売元の事情を考えれば嬉しがってる場合でもなかったんですねえ。
昨年10月、
「中国方面の映画は観られるときに観とかないと一生観られなくなるかも知れない」
と体調悪いの押して『建国大業』を観に出掛けたもんでしたが、それはDVDも同じで、日本版発売になったら速攻押さえとけって話ですね。
『アフター・ザ・レイン』だって内容はアレでナニで実質劉燁がかわいらしくてかわいそうなだけの映画ですが(ヒドス)、いますぐぽちっておいたほうが身のためですよ密林のカスタマーレビュー読んで二の足踏んでいるそこのお嬢さん。そして日本版出てないやつは大陸からお取り寄せをしてでも捕獲しておくが良い、ということなのですね。いい加減『南京!南京!』も『十月圍城』も『我的唐朝兄弟』も購入しとけと。



ともあれ『好奇心は猫を殺す』日本版DVD、ご希望のかたがなんとかお手に出来ますよう。


| 00:03 | Hu Jun(胡軍/フー・ジュン) | comments(4) | - |
恋之風景・影集+幾米電影挿画。
 2003年11月香港発行の初版。
 中古で入手しました。




日本公開のときのパンフレットは編集者のセンスが偲ばれる良いお仕事をなさっていて、小烈の激かわいらしいお写真も多くってもえじに寸前でしたけど、そっちと内容かぶってんだろうと思ってたら、小烈についちゃかぶってませんでした。こっちはこっちでもえじにです。たとえばこんなん。






曼にキスしたときに移ったと思しき口紅がついてるんです彼の下唇に。
見開き左頁に載ってる曼の写真はあきらかに口紅が剥げてみえるので、たぶんそうだと思うんだけど。気の迷いかも知れないけど。印刷の加減かもわからないけど。気の迷いと印刷の加減じゃないことをひっそりマリア様にお祈りします。
あと他にも死んだ恋人のタイムカプセルに夢中な曼を前にして拗ねちゃうとことか電球替えるとことか。なかなかたまんねぃです。

あちらで公開されたときのポスターの縮小版が本扉前に、小烈が描いた壁画の完全バージョンがセンターに、それぞれ挟み込まれています。壁画のほうは広げてみると横75センチというでかさ。映画だと陽光を浴びてたいそう明るくどっかほんわかした印象でしたが、こうしてみてみるとじつは非常にさびしい絵で。梨花の下、こちらに背を向けて佇む男の子(=天使/小烈)がみつめるその先は、ぼんやりとした、「不安」とでも表現すべき青ばかりの宇宙。片恋の相手に向けてこういう絵を描いてしまう小烈という子のキャラクターもすこし変化するようだし、改めて、

「あ。これってそういうことだったか」

という発見もあったりして、考察の余地が広がりました。入院貧乏の身にはちょっと高かったけど買って良かったです。
| 02:19 | 電影瑣聞。 | comments(4) | - |
在青島的天使・小烈。──『恋の風景/The Floating Landscape』



彼女は両目を失明した女の子です
この世にない風景を探し求めています

彼は天使
いつもひそかに彼女のことを守り、温かな気持ちを抱いています

彼はいつも翼を広げ、彼女のために風や雪をさえぎります
自分の羽が一日、また一日と
抜け落ちてしまうのもかまわずに


やがて彼の雪のように真っ白な羽は、風に吹かれて抜け落ち続け
真っ白な花の海に変化したのです
あの存在しない風景が出現したのです!



そこには羽のない 天使 が佇んで、
女の子を待っています





すこし前まで、中華人民共和国山東省青島という街について私は、三国干渉とか日中戦争とか青島啤酒の産地とか、その程度の認識しか持ちあわせていなかった。
いまはちょっとちがう。
彼の地にはすくなくともふたりの、羽のない天使が棲んでいることを知ってる。

そのうちのひとりについて書いてみたいと思います。
天使の名を「小烈(シャオリエ)」といいます。



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| 12:01 | 電影感想文。 | comments(12) | trackbacks(2) |
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