「5月10日」という日は、自分の人生に於いてはほとんどなんの意味も無いものだった。
毎年毎年、ただぼんやりとやってきては行き過ぎて、ぼんやりと忘れ去る一日、というようなものだった。
2009年の5月10日に、この世界に『藍宇』というものが存在するのだということを知って。
その更に一年後の今日、2010年5月10日は、
ここを始めて100本目にあたるエントリを、『藍宇』をテーマに書いたりしている。
数字に纏わる暗合の頻発はこと『藍宇』に関してはいっそ執拗なくらいだが、なぜそういうことになるのかといえば、自分がそれほど執拗く『藍宇』というものに執着しているからに外ならない。
昨年の8月が終わるころ、
そもそもどうして私は、『藍宇』に出逢ってしまったのだろうか。
それが胸に落ちるころには、私は『藍宇』を必要としなくなっているかもしれない。
そんなことを考えていた。
対象が有機であれ無機であれおよそ私は惚れっぽい人間で、そしてそれは裏を返せば非常に飽きっぽい人間だということでもある。
「惚れっちまったわ」と認識したその瞬間からもう「飽きる」へのカウントダウンが始まっている。
飽きることは悪では無いし、自分のなかではなにがどうして「飽きる」に至ったのかということはきちんと整合しているのだが、飽きられるほうが人間だったりするとあんたはつれないとか冷たいとか自分勝手だとか我が儘だなどと詰られる。
「いや、でも、自分の気持ちはこれこれこういうふうにここで整合してるんですけど」
とか説明するのも野暮だし。実質飽きているのに「あなたに夢中なの」みたいなふりをしつづけるほうが余程誠意が無い、であれば繋いだ手を離して自由になったほうがあなたにとっても御為ってものでしょ──とか言ってるがそんなものはただの詭弁だ。
藍宇と同じくらいの年齢のとき、藍宇と同じくらいのレベルの失恋をした。つまりはじめて寝た男に飽きられて棄てられた。だいすきな相手に「飽きられて棄てられる」というその怖ろしさに骨身を削られ、それはいまだに治癒しない傷となって残り、既に実体など無いその怖ろしさを闇雲に怖れる余り、飽きられる前に「飽きてしまう」をくりかえす人間になっていまに至る。
藍宇はまるで麻薬だった。手に入らないときは死ぬほどそれを想い、手に入れると足が地につかないような快楽にはまる。だが目覚めたとき、待っているのは無限の苦痛なのだ。
(『北京故事 藍宇』)
対象が有機であれ無機であれ。
たぶんそれは「飽きる」のでは無い。
「私が『藍宇』を必要としなくなる」のでは無い。
『藍宇』が私を必要としなくなるのだろう。
『藍宇』が私を棄てて、何処かへ行ってしまうのだろう。
そういうときがきっとくる。いつかはわからないけれど。
藍宇を演じた役者の「死に顔」ばかりをあつめて左見右見するという多分に罰当たりな行為は、いずれ『藍宇』に棄てられる、そのときのための準備のようなものだったのかも知れない。