在青島的天使・小烈。──『恋の風景/The Floating Landscape』
2010.06.05 Saturday
彼女は両目を失明した女の子です
この世にない風景を探し求めています
彼は天使
いつもひそかに彼女のことを守り、温かな気持ちを抱いています
彼はいつも翼を広げ、彼女のために風や雪をさえぎります
自分の羽が一日、また一日と
抜け落ちてしまうのもかまわずに
やがて彼の雪のように真っ白な羽は、風に吹かれて抜け落ち続け
真っ白な花の海に変化したのです
あの存在しない風景が出現したのです!
そこには羽のない 天使 が佇んで、
女の子を待っています
すこし前まで、中華人民共和国山東省青島という街について私は、三国干渉とか日中戦争とか青島啤酒の産地とか、その程度の認識しか持ちあわせていなかった。
いまはちょっとちがう。
彼の地にはすくなくともふたりの、羽のない天使が棲んでいることを知ってる。
そのうちのひとりについて書いてみたいと思います。
天使の名を「小烈(シャオリエ)」といいます。
病死した恋人サムが遺した一枚の絵。そこに描かれた風景を求めて、マンは青島へやってくる。サムの日記を1日ずつ書き写しながら、冬の青島で恋人の風景を探し求めるマン。やがて郵便配達をしながら絵本作家を目指すシャオリエに出会い、彼の優しさに気持ちが揺さぶられていく。しかし彼女は、サムへの思いが徐々に自分の中から失われていくことに動揺し、過去の思いの中に生きようとする。新たな人生を踏み出せぬまま、季節の変わり目をむかえるマン。しかし愛はゆるやかに、おだやかに、傷痕が残るその心を繕っていく…。
思い返せば昨年のいまごろは劉燁出演作を欲望の赴くままに、餓鬼の如く漁る毎日でした。
なんだかもう、はるかに遠い昔の出来事のようだ。
そんな餓鬼デイズの只中にいて、しかしこの『恋の風景』にはなかなか手を出せなかった。
『恋の風景』のプロデューサーは關錦鵬。『藍宇』を撮った監督が、藍宇を演じた役者をメインキャストに起用して製作した映画。藍宇の恋の記憶をひきずったまま、どこ切っても100%恋愛映画であるらしい本作を観ることを、禁忌のようにも捉えていたのだと思う。
しかし国内で観られる劉燁出演作品はもれなく観尽くしてしまい(「大陸のプロダクツを購入する」とかいう技はまだ知らなくて)、背に腹は代えられねえと、若干腰が引けつつも手を出してみた。
ああこれはいくらなんでも藍宇だよね藍宇にもほどがあるよね、というところがいくつかあって、しかし観終わってみれば素直で嫌味の無い、佳い映画でした。
『山の郵便配達』で郵便配達人を演じた劉燁が、ここでふたたび、郵便配達人を演じている。
ひとの想いを運ぶことを職業にしている青年が、いざ惚れた女の子に自分の想いを伝えようとするときにはかなしいほど無器用になってしまう。
彼女の一挙手一投足を熱っぽい視線で追いかけ、死んだ恋人が残した風景を探し求める彼女の言動に呆気ないほどたやすく揺れ動き、持ち重りする自分の想いを扱いかねて目を伏せてしまう。
そういうさまがこのうえなくじれったくてかっこわるくて美しい。
『藍宇』は想いなどという手順すっとばしていきなりセックスから始まる物語だったけど、男の手でひらかれ馴らされてゆく藍宇の肉体と、裏腹にあまりにナイーヴで生硬な藍宇の思考や言動のギャップが、やっぱりじれったくてかっこわるくて美しかった。
小烈は藍宇から性的な匂いを引っこ抜いて、恋をする男の子、ただそれだけの風景になって居る。
恋という感情がひとのかたちを取ってセルリアンブルーの青島の空の下に茫洋と立って居る。
性的な匂いが無いぶん恋という病に囚われた人間の滑稽があからさまで(手に持ってる紙切れだの郵便物だのをやたらに落っことしてみたり。少女漫画のひとか)、でも演者が劉燁なので、そういう滑稽だって、不憫で可憐でかわいらしい恋の風景になっちゃってる。
「恋愛映画」というものにあまり興味がもてない自分に、求めるものをちょうど良い匙加減で与えてくれたのが『藍宇』だった。『恋の風景』は『藍宇』ほどジャストってわけじゃないけど、『藍宇』と同様に喪失と希望を、手を抜かない描写で切り取っているところが好ましい。メンタルの調子があまり良くないときに、痛いところにそっと手を当ててくれるような効能を信じて、凭れかかるようにこの映画を再生していたりする。
そうした効能でいうならたとえば夜の図書館の場面なんか最上。
曼の風景探しを助けようと閉館後の図書館に忍び込み、青島の歴史が書かれた古い本を小烈が曼に見せてやるところ。
闇のなかで小烈が本を開くと、本からぱっと光が射して、彼の横顔を照らす。
ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの絵さながら。
考えてみれば「本から光が射す」などということはある筈も無いのだけれど、「ある筈も無い」をさらりとあることにして見せる、それこそが映画の魔法。一筋の仄かな光が、曼を思い遣る小烈のやさしさ、ひっそりと目に立たない彼の美質そのものをも遍く照らしだす。書物から光が射すという演出も、無明の道を導く知の光明、みたいな感じで本好きの人間にはかなりたまらない。
陳捍東と藍宇をもすこし幸せなかたちで生き直させてやりたい。
という思いがもしかすると關錦鵬にはあったんじゃないか。『恋の風景』を観るたびにそんなふうに感じる。
藍宇と小烈を同じ役者が演じているから、というよりむしろ陳捍東と曼なのかもしれない、そう感じる理由は。
「相愛の相手と死別する」という点でとても近いところにいる捍東と曼。どちらの映画にも彼らが恋人の死に顔と対峙する場面が挿入される。『藍宇』の最後を流れ過ぎていく、車窓から眺める建設途上の北京。雑然と殺伐と埃臭く進化していく街の景色。建築を職業とした藍宇を偲ぶよすがとして、あれはきっと、陳捍東にとってこのうえない恋の風景なのだ。
そして生者と死者の境界を曖昧にするのは『恋の風景』においてもやはり鏡という装置。それを介してふたつの物語を向き合わせてみれば、
藍宇を喪った陳捍東が、藍宇そっくりの男の子に出逢ってもう一度恋をして、(曼として)再生する物語
などという身勝手な錯誤にも、易々と落とされる。
陳捍東は螺旋階段を下りてきて藍宇に別れを告げる。
曼は螺旋階段をのぼって小烈に会いに行った。
藍宇/小烈という、どちらも天使であるような男の子(どういう理由でか「天使は長身である」というイメージが自分にはある)、彼らと捍東/曼という「地上」を繋ぐ道が螺旋をえがくというあたりにも、作り手の思いが人知れずこめられていそうだ。
『藍宇』はひとりの男の子が夢を叶えるために北京にやってきたところから始まった。
『恋の風景』は、ひとりの男の子が夢を叶えるために北京へ旅立とうとするところで終わる。
小烈は藍宇みたいな夭折とは無縁だろう。
しかし、小烈が描いた物語のなかの天使は、女の子の再生とひきかえに自らの羽を失うことになる。
生と死の際を彷徨う曼をこちらの世界に連れ戻す、その代償として小烈もまた、大切なものを喪ってしまうのかもしれない。
地上を歩くために美しい声を差し出した人魚姫のように、それが人間を救うために在る、天使という生きものの宿命なのかもしれない。
冥い冬のなかで育んできた想いを純白の梨花に託し、光充ちる春として風に乗せて解き放つラストシーン。あれはそうした宿命の生きものだからこそ呼び込める美しい風景なのだろう。遠からず喪ってしまう恋への哀惜と諦観を仄かに刷いて曼をみつめる小烈の表情が、何時までも眼裏を去らない。