情熱の嵐。──『藍宇』其の燦拾讃
2013.05.13 Monday
マンション建設現場でクレーンから資材が落下し直撃された作業員の男性が意識不明の重体であると昼のニュースで知った。
胸苦しいです。
日々世界中でそういう不幸な事故は(もっと不幸なことも)頻発しているだろうに、それをたまたま今日この日に耳にするから、なんですが。
『藍宇』と出逢って四年が経ちました。ちょっと愉しいことでも書いてみよう。私は愉しいがほかのひとにとって愉しいかどうかわからないが。表題の件です。
拙宅では『藍宇』という表記で統一していますが、この作品の邦題は正しくは、
『情熱の嵐〜LAN YU〜』です。
レンタル屋の棚で「ら」のとこを探していると永劫出逢えません。「し」のとこを探さなければだめなのだ。どういう事情か知りませんがそういうしくみになっているのだ。そのしくみをご存じ無いまま「ら」を彷徨ったあげくにああもう観なくったっていいやと諦めてしまったひと、『藍宇』という作品そのものの存在を忘れてしまったひともいらっしゃるやもしれませぬ。
せつないぜ。
「ら」でいいじゃねえかよなんで「し」なんだよ。
ていうかそもそもなんで「情熱の嵐」なんだよ。
『藍宇』が私の人生を変えてしまうこと。それがはるかむかしに定められていたのだとしたら、その『藍宇』が「情熱の嵐」という邦題を纏うことも、ある種黒衣の如き、脱げない約束なのであろうか。
「ら」で右往左往して以来、この「情熱の嵐」という邦題をつけたのがだれなのか、ずっと心にかかっています。
できることなら命名したそのひとに会ってみたい。
そして問うてみたい。
なぜここで敢えて「情熱の嵐」だったのですか、と。
「情熱の嵐」という邦題が、西城秀樹が1973年に歌ってヒットさせた“情熱の嵐”からきているのは間違い無いと思います。「本歌」が70年代アイドル歌謡のタイトルであるという理由で「陳腐な邦題」と斬って捨てる方もすくなからずおられるのでしょう。自分はリアルタイム“情熱の嵐”世代ですがこの歌はけっこうすきだった。ご存じ無い向きのために、こんな歌です。
フルバージョンはこちら→■
まあこれ石持て追われるの覚悟で申しますけど。
18歳当時の秀樹をあらためて見てみたら、なんか『藍宇』で藍宇を演ってる劉燁にちょっとどっか似てんなと思ってしまいました。もっさりーな髪形とか純白の短パンといった記号をひっこぬいても、両者の顔の骨格に一脈通じるものが感じられるのです。
『藍宇』に「情熱の嵐」という邦題をつけた方は、もしかしたら秀樹のファンだったのかもしれない。
『藍宇』の劉燁をみたとき、そこに18歳の秀樹の面影が重なるように、思えたのかもしれない。
なんてね。すべては私の妄想ですが。でももしもそうだとしたらその方はきっと、“情熱の嵐”という歌が好きだったでしょう。そして、“情熱の嵐”という歌のもつ意味を、すごくよくわかっていたのだと思います。
「情熱の嵐」という邦題が「陳腐である」と断罪されてしまうのは、同名の楽曲を歌う「西城秀樹」というひとのパブリック・イメージもあるのでしょう。新御三家だったりワイルドな17歳だったり芸能人水泳大会だったり「ヒデキ、感激!!」だったりギャランドゥだったり。たしかにそれらすべてがザッツ秀樹なのも事実だ。だがそうしたものが揶揄や嘲笑の対象では無く、おおまじめに、アツく受け入れられたのが70年代という、一種「情熱」の時代だったのでした。私自身、「情熱」という言葉のもつ暑苦しい愚直さを鬱陶しく思った時期もあったけれど、畢竟人間を突き動かすものはそれしか無いのだということが、『藍宇』を経たいまではよくわかります。本歌・“情熱の嵐”の歌詞をお読みになったことがあるでしょうか。以下引用してみます。なんというかもうこれおそろしいほど『藍宇』です。
情熱の嵐
作詞:たかたかし 作曲:鈴木邦彦
君が望むなら 生命をあげてもいい
恋のためなら 悪魔に心
わたしても悔やまない
その瞳 僕のもの
この体 君のもの
太陽が燃えるよに 二人は愛を
永遠にきざもう
君が望むなら たとえ火の中も
恋のためなら怖れはしない
情熱の嵐よ
噂のつぶても かまいはしないさ
体を張って 愛する君を
赤い血が燃えるよう
その笑顔 僕のもの
この若さ 君のもの
太陽が燃えるよに 二人は愛を
永遠にきざもう
君が望むなら たとえ火の中も
恋のためなら怖れはしない
情熱の嵐よ
いい歌詞だなァ。
「恋」ってこういうものですよ。
私、これを陳腐だと嗤うことなんかできません。
私は心の底でずっとこういうことを渇望して(叶えられないからこそ渇望して)生きてきたし、
「自分はこういうことをずっと渇望していたんだな。ずっと渇望していましたって声に出して言うのは、ぜんぜんはずかしいことじゃないんだな」
四年前の今日、そう教えてくれたのが『藍宇』だったからです。
これを陳腐というならば、きっと『藍宇』そのものが陳腐なのです。
だれしもが心の底に押し込めて素知らぬ顔つきで無かったことにしているはずかしさ、さびしさ、みっともなさ。どろどろと腐臭を放つ思い。それらすべてを「善し」と肯定してくれるもの。藍宇を演じた役者がまだ生まれてもいない頃、意味もわからず歌っていたその歌にそのことばに、もう一度出逢わせてくれるもの。
四年のあいだくりかえしてきた『藍宇』を観るという日常、『藍宇』を考えるという営為。いろいろいっぱいもらった。いちいち数えきれない。ありがとう。そして道はつづく。鬱陶しさとか暑苦しさとか面倒くささとかつまり情熱を、胸ひとつに携えてあるく。
●美しい名前。──『藍宇 Lan Yu』
●シガ フタリヲ ワカツマデ。──『藍宇』其の拾参(2011年5月13日)
●三年不蜚不鳴。──『藍宇』其の弐拾詩(2012年5月13日)
胸苦しいです。
日々世界中でそういう不幸な事故は(もっと不幸なことも)頻発しているだろうに、それをたまたま今日この日に耳にするから、なんですが。
『藍宇』と出逢って四年が経ちました。ちょっと愉しいことでも書いてみよう。私は愉しいがほかのひとにとって愉しいかどうかわからないが。表題の件です。
拙宅では『藍宇』という表記で統一していますが、この作品の邦題は正しくは、
『情熱の嵐〜LAN YU〜』です。
レンタル屋の棚で「ら」のとこを探していると永劫出逢えません。「し」のとこを探さなければだめなのだ。どういう事情か知りませんがそういうしくみになっているのだ。そのしくみをご存じ無いまま「ら」を彷徨ったあげくにああもう観なくったっていいやと諦めてしまったひと、『藍宇』という作品そのものの存在を忘れてしまったひともいらっしゃるやもしれませぬ。
せつないぜ。
「ら」でいいじゃねえかよなんで「し」なんだよ。
ていうかそもそもなんで「情熱の嵐」なんだよ。
『藍宇』が私の人生を変えてしまうこと。それがはるかむかしに定められていたのだとしたら、その『藍宇』が「情熱の嵐」という邦題を纏うことも、ある種黒衣の如き、脱げない約束なのであろうか。
「ら」で右往左往して以来、この「情熱の嵐」という邦題をつけたのがだれなのか、ずっと心にかかっています。
できることなら命名したそのひとに会ってみたい。
そして問うてみたい。
なぜここで敢えて「情熱の嵐」だったのですか、と。
「情熱の嵐」という邦題が、西城秀樹が1973年に歌ってヒットさせた“情熱の嵐”からきているのは間違い無いと思います。「本歌」が70年代アイドル歌謡のタイトルであるという理由で「陳腐な邦題」と斬って捨てる方もすくなからずおられるのでしょう。自分はリアルタイム“情熱の嵐”世代ですがこの歌はけっこうすきだった。ご存じ無い向きのために、こんな歌です。
フルバージョンはこちら→■
まあこれ石持て追われるの覚悟で申しますけど。
18歳当時の秀樹をあらためて見てみたら、なんか『藍宇』で藍宇を演ってる劉燁にちょっとどっか似てんなと思ってしまいました。もっさりーな髪形とか純白の短パンといった記号をひっこぬいても、両者の顔の骨格に一脈通じるものが感じられるのです。
『藍宇』に「情熱の嵐」という邦題をつけた方は、もしかしたら秀樹のファンだったのかもしれない。
『藍宇』の劉燁をみたとき、そこに18歳の秀樹の面影が重なるように、思えたのかもしれない。
なんてね。すべては私の妄想ですが。でももしもそうだとしたらその方はきっと、“情熱の嵐”という歌が好きだったでしょう。そして、“情熱の嵐”という歌のもつ意味を、すごくよくわかっていたのだと思います。
「情熱の嵐」という邦題が「陳腐である」と断罪されてしまうのは、同名の楽曲を歌う「西城秀樹」というひとのパブリック・イメージもあるのでしょう。新御三家だったりワイルドな17歳だったり芸能人水泳大会だったり「ヒデキ、感激!!」だったりギャランドゥだったり。たしかにそれらすべてがザッツ秀樹なのも事実だ。だがそうしたものが揶揄や嘲笑の対象では無く、おおまじめに、アツく受け入れられたのが70年代という、一種「情熱」の時代だったのでした。私自身、「情熱」という言葉のもつ暑苦しい愚直さを鬱陶しく思った時期もあったけれど、畢竟人間を突き動かすものはそれしか無いのだということが、『藍宇』を経たいまではよくわかります。本歌・“情熱の嵐”の歌詞をお読みになったことがあるでしょうか。以下引用してみます。なんというかもうこれおそろしいほど『藍宇』です。
情熱の嵐
作詞:たかたかし 作曲:鈴木邦彦
君が望むなら 生命をあげてもいい
恋のためなら 悪魔に心
わたしても悔やまない
その瞳 僕のもの
この体 君のもの
太陽が燃えるよに 二人は愛を
永遠にきざもう
君が望むなら たとえ火の中も
恋のためなら怖れはしない
情熱の嵐よ
噂のつぶても かまいはしないさ
体を張って 愛する君を
赤い血が燃えるよう
その笑顔 僕のもの
この若さ 君のもの
太陽が燃えるよに 二人は愛を
永遠にきざもう
君が望むなら たとえ火の中も
恋のためなら怖れはしない
情熱の嵐よ
いい歌詞だなァ。
「恋」ってこういうものですよ。
私、これを陳腐だと嗤うことなんかできません。
私は心の底でずっとこういうことを渇望して(叶えられないからこそ渇望して)生きてきたし、
「自分はこういうことをずっと渇望していたんだな。ずっと渇望していましたって声に出して言うのは、ぜんぜんはずかしいことじゃないんだな」
四年前の今日、そう教えてくれたのが『藍宇』だったからです。
これを陳腐というならば、きっと『藍宇』そのものが陳腐なのです。
だれしもが心の底に押し込めて素知らぬ顔つきで無かったことにしているはずかしさ、さびしさ、みっともなさ。どろどろと腐臭を放つ思い。それらすべてを「善し」と肯定してくれるもの。藍宇を演じた役者がまだ生まれてもいない頃、意味もわからず歌っていたその歌にそのことばに、もう一度出逢わせてくれるもの。
四年のあいだくりかえしてきた『藍宇』を観るという日常、『藍宇』を考えるという営為。いろいろいっぱいもらった。いちいち数えきれない。ありがとう。そして道はつづく。鬱陶しさとか暑苦しさとか面倒くささとかつまり情熱を、胸ひとつに携えてあるく。
●美しい名前。──『藍宇 Lan Yu』
●シガ フタリヲ ワカツマデ。──『藍宇』其の拾参(2011年5月13日)
●三年不蜚不鳴。──『藍宇』其の弐拾詩(2012年5月13日)