美しい名前。 ──『藍宇 Lan Yu』
2009.08.31 Monday
泣いても駄目もう帰れない。
(「薔薇娼婦麗奈」/吉井和哉)
もう10年以上も前になるでしょうか。
『北京故事』という中国発のネット小説が一部で話題になったことがありました。大雑把にいえばいわゆる「BL」というジャンルに該当し、
「バイセクシャルの青年実業家と純情な苦学生の禁断の恋」
とか、惹句ふうにまとめるとそんな感じすかああああ書いてるだけでこっぱずかしいよ……。
でも、こっぱずかしいけどそういうあまったるい王道なのに直球で殺られがちなのが乙女座生まれの性というもの。
ああちょっと読んでみたひわ、と思ったけれどなにしろ相手は中国語です。自分太極拳用語以外の中国語を解しません。読みたくたって読めやしません。そうこうするうち日々の雑事にとりまぎれ、それきりになってしまいました。
『北京故事』を原作とする映画が製作されたというのも、ですからまったく知らずにおりました。韓流とか華流とか、半島や大陸方面の芸能事情にはいたって暗いもんですから。しかもその映画が日本公開された年度がよりにもよって2004年。『新選組!』以外の世界とは完膚無き迄に、積極的に断絶していた、魔の年度でした。
だが、2009年のいまになってこれと出逢うというのも、それはそれで悪くない成り行きでした。
自分の与り知らぬところで出逢う準備が整った。だから出逢った。そして出逢ってのちの世界は確実にその色を変えた。
縁なんてのはそんなものです。
そうしてこれも、あるひとつの、奇妙な「縁」の物語。
『藍宇』
「さまざまな桎梏をかかえた同性同士の恋」
といいますとまず、『ブロークバック・マウンテン』を思い出します。
『ブロークバック・マウンテン』は李安(アン・リー)。
『藍宇』は關錦鵬(スタンリー・クワン)。
台湾と香港の監督がそれぞれにこうしたテーマで映画を撮っていて、持ち味のまるでちがうそれぞれがそれぞれなりに、すぐれて印象的な作品になっているというのも、なんだか不思議な気がします。
アン・リー監督の映画は、『アイス・ストーム』と『グリーン・デスティニー』というのが曰く言い難く好きでした。『ブロークバック・マウンテン』はしかし、公開前におおまかなストーリーを読んだだけでつらく、映画館に行って誰とも知らぬ他人にまじってこれを観る気持ちには、ついになれず終いだった。
先年ヒース・レジャーさんが亡くなり、それで積年の宿題を果たさねばみたいな感じで、ちょっと眦決する思いでDVDを買って、観ました。案の定といいますか、からだの底に沈めたいくつかの記憶にぞんざいに折った棒の先を突き刺されるようで、映画という娯楽をあじわうために、なんでこんなにつらい感情を経験しなければならないのかと、理不尽にすら思いました。「美しい」とか「せつない」とか、そうした言葉でこの物語を語ることは私にはできない。いまだにどんな言葉を以てしても語ることができません。感動すらしたのかどうかおぼつかない。なので当然「萌え」などという不埒なるものは芽ばえようが無い。
私にとってそれは現在進行形の現実で、そんなものに酔うことは、欺瞞であり冒涜であり、罪であるような気さえした。
(そのように感じたとしても、『ブロークバック・マウンテン』はほんとうに素晴らしい映画でした。素晴らしいがゆえに鑑賞がとてもつらいという、些か困った映画でもあるのでした。)
『藍宇』はどうかといえば、これはこれで、己の通過してきた現実の痛い追体験ではありました。
だからつらいことはつらい。でも、苦いお薬をのんだあとには、ちゃんと口直しのお菓子がもらえる。お菓子はほのかにあまくてミルク臭いなつかしさがあって、何度でもたべたくなる。
とはいえお菓子をもらうためにはどうしても、苦いお薬を我慢しなければならない。
それを繰り返しているうちに、自分が求めているのはあまいお菓子なのか苦いお薬なのか、なんだかよくわからなくなる。
そういう映画でした。
『藍宇』は、タイトルロールである藍宇(ラン・ユー)という青年の、人生最後の朝から始まります。数時間後に藍宇は、突然の事故によっていともあっさりとその命を絶たれ、30にも届かぬ若さで死にます。
『ブロークバック・マウンテン』は時系列に沿ったイニスとジャックの20年でしたが、86分のこの映画は、冒頭と終幕を除くそのほとんどすべてが、藍宇が無惨な死に至るまでの10年を辿る回想というかたちで構成されています。語り手は藍宇の情人、陳捍東(チェン・ハントン)。
お前が去っても思い出は去らない。
いまも心の内にいる。
映画冒頭のこの独白を紡ぐのは、陳捍東を演じている胡軍(フー・ジュン)の声。
1988年夏。北京。
貿易会社を営み、気に入った男や女と次々に寝るような享楽的な生活を送っていた捍東は、東北地方から出てきたばかりの貧しい大学生、藍宇と出逢う。ひとめで藍宇に惹かれた捍東は、一千元で彼を買い、一夜を共にする。
出逢いから死別まで、10年の軌跡を描く物語は、まずはそのように、金銭を仲立ちにした欲望から始まる。
金銭で購えるものしか、捍東は藍宇に与えない。藍宇が心底求めているたったひとつのものだけは決して与えようとしない。捍東が藍宇に執着するのは己の力の確認のためでもある。聡明でやさしく、超然と孤高な藍宇を支配し跪かせたい。捍東は藍宇を縛り翻弄する。自身はなにひとつ約さず、そして平然と彼を裏切る。
なにも求めず、求めないことによって人間として対等に捍東を愛したいとひたむきに願う藍宇。
藍宇の愚直な一途さを嘲笑しつつ本能的におそれ、おそれる裏で激しく焦がれ、やがて屈していく捍東。
出逢ったり寄り添ったり嘘言ったり泣いたり。
抱き締めたり出ていったりまた出逢ったり。
失敗だらけで過ぎてゆくふたりの10年。
「愛」を藍宇に「金銭」を捍東にそれぞれ象らせ、ふたりを対立する軸として描きだす物語。そんな深読みも乙かも知れない。倦むことも無くくりかえす愚行と悔恨の果てに、「愛」と「金銭」は抜き差しならない表裏に至る。
握手した瞬間、彼が目を上げて俺を見た。その目を俺は一生忘れることができない。大きなひとみに憂鬱と不安と懐疑が満ちていた。彼はにこりともしなかった。よくあるような愛想笑いのかけらも見せなかった。
原作『北京故事』の翻訳版で、藍宇はそんなふうに捍東の前にあらわれる。
永劫不変の純愛の蟻地獄の底から手をのべて、陶然と愛する男をみあげる、陰鬱な面差しの天使。
そのイメージは、映画における藍宇もほぼそのままに踏襲している。
懶げで、神経質そうで、笑顔をみせない。セックスはおろか女の子とのキスすら知らない。自分の身に起こることへのおそれと諦念と、かすかな自棄のようなものがその表情から窺える。快楽への期待よりも破身の傷ましさが先に立つ。
ものなれた捍東は、そんな藍宇を脅えさせないように、幼い子どもをあやすような周到さで彼を抱く。
ゲイサイトに発表されたオリジナル小説は、ポルノ紛いの性愛描写の釣瓶打ちであったと聞きますが、出版段階で大幅な改訂がなされたとかで、翻訳版はそっち方面については至ってかわいらしい内容。同様に映画も、性愛行為を匂わせる描写は随所にあっても、そのまんまの濡れ場というのはじつはそんなに無い。この最初の夜の場面が劇中もっともエロティックかも知れない。
捍東が借りているホテル「郷哥」の一室。裸でベッドに横たわる藍宇。しなやかなそのからだを汚す彼自身の欲望の残滓を、捍東がゆっくりと拭ってやる。
緩慢なその手つきは新たな熱を誘い出すための愛撫でしか無い。
男の手で触れられているうちに、藍宇はまた勃起してしまう。兆したからだが示す反応を窺いながら、ここで眠っていけと捍東は囁く。
ここらあたりの捍東の下心まるだしの欲情っぷりが、年相応に生臭くってすごくすてき。
キスをしたことがあるかと訊かれ、まだと答える藍宇に、教えてやるとくちびるを寄せる捍東。闇のなかでの、搦め捕るようにあまく濃密なくちづけ。
一夜限りの行きずりで終わる筈だった。
しかし「縁」というのはおそろしいもので、音信不通の4カ月を経ての冬、ふたりは北京の街角でふたたび出逢ってしまう。
のちに捍東は藍宇を運命の相手と認識するのだけれど、どうしようもなく惹かれあう無意識が成就させた、それは必然の再会。
降りしきる雪のなか、貧相な薄着の藍宇を気遣って、その首に自分のマフラーを巻いてやる捍東。金で買われて抱かれた男の望外のやさしさに、藍宇はわずかに戸惑い、はにかんで目を伏せる。
恋に落ちる瞬間の音というものがもしもあるのなら、正しくそれが、見るものの耳をひっそりと打つような。
そんな場面かと思います。
DVDには、『藍色宇宙』と名付けられた、この映画のメイキングが収録されています。
ありがちなメイキングを遥かに超えた、それのみで一篇の詩のように心に刻まれる、とても美しいフィルムです。
そのなかに、上記の最初の夜の場面のリハーサルシーンも収められています。
本番は素っ裸ですがリハなのでどちらも着衣。着衣の状態でいたしているほうがむしろ倍増しでいやらしく、プライヴェートを覗き見する禁忌に触れてしまったようで、とてもはずかしい。それには勿論理由があって、
監督は僕にこう言った。
君はこの映画の中で胡軍を愛さなくてはならない、彼におぼれるんだよ、って。(劉燁)
陳捍東が感じることを自分も感じるようにした。(胡軍)
つまり捍東と藍宇を演じる役者ふたりは撮影中ずっと、ほんとうに相手に恋をしていたともいえる。
素の彼らはどちらもゲイではないのだけれど、クランクアップ後も「捍東」と「藍宇」から抜けることができなくて、危惧した周囲が、半年以上互いに会わずにいるよう勧めたという。
それもまあ無理はあるまいとすらりと納得してしまえる生々しさが、映画のなかのふたりからは濃厚に匂いたつ。
本編から削除されたシーンに、藍宇のアパートのバスルームで捍東が藍宇をシャンプーしてやる場面があって、そこで彼らが纏う空気というものはもはや職業的な演技なんか遥かに超えている。おそらくは藍宇の死まで、もうさほど遠くない夜。なにもかも預けきった顔をして、心の底から幸せそうな藍宇。このうえない宝物を扱うような、慈愛に溢れた捍東の仕種。見ていると泣けて仕方が無い。
藍宇を演じているのは、劉燁(リウ・イエ)という中国の若い俳優。
前述したように大陸の芸能事情に疎い私は、このかたを存じあげませんでした。華流の若手筆頭といわれてる役者さんで、1978年生まれの現在31歳。『藍宇』撮影時はまだ22歳で、
「どこの辺境からスカウトしてきたんだこの21世紀にこんなピュアな子を!」
とか本気で思ってしまったぐらい、その垢抜けなさ田舎臭さはいっそすがすがしいほど自然。端正な顔立ちで、特に横顔の綺麗さとか絶品かと思いますが、全体的に如何ともし難くどんくさい佇まい。声も低くてなんか滑舌悪いし。顔から受ける印象だとむしろ小柄なひとのようなのだが、実際は胡軍さんと同じく身長185センチ。
「185センチ×185センチでBLか。それってちょっとどうなんだ……」
と一抹の不安が過ぎったことはとりあえずここに懺悔しときます神様。
申し訳ございませんでした。
自分の目が節穴だったってことが、開巻10分でよっくわかりましたです神様。
ジョニー・デップにしろ北村一輝にしろ、これまで自分が前後の見境無く首ったけになりがちだった役者に共通しているのは、まなざしによる表現が頭抜けて繊細かつ秀逸であるということで、それは劉燁もまたそうです。
「憂鬱と不安と懐疑」ばかりを湛えていた眸に、徐々に宿りはじめる捍東への恋情。
恋を得た喜びと引き替えに藍宇を苛む、恋を失うことへのおそれ。そして絶望。
その果てに生まれる、透明で穏やかな慈しみ。
『藍宇』という映画は、藍宇@劉燁のまなざしのなかにひらめいては消える、さまざまな感情の片鱗を掬い取ってひっそりと愛でるためにある、といっても過言じゃ無いです。
彼はどうやら目が悪いようで、またわずかに斜視がかってもいて、左右の視線が対象にきっちり結ばれずしばしば揺らぐ。揺らぐ狭間に茫としたあやうさが漂う。なにしろまつげの長さが半端無い。四六時中恋をしている眸で他人を見ているようなもので(たとえば『恋の風景』なんかその極致で)じつに危険きわまりない。捍東をみつめて、すっと目を伏せる刹那の表情のなまめかしいこと。垢抜けない容姿からときおり覗く媚態は、天然ゆえか、それとも技巧なのか。清廉と淫蕩の、その落差が凄まじい。
そして、そんな罪作りな眸に恋をされてしまう三国一の果報者。
凛々しく強い趙雲さんしか存じあげてない状態で、いきなりDVDお取り寄せで『藍宇』鑑賞という無謀なことをやらかしてしまったものですから、それはそれはもう、
「うわあ、素は天パなのねえ」
「うわあ、脱いでもすごいんだあ」
「うわあ(自粛)」
とかもう、あっちもこっちもなにかとまつりになってしまったです……。
すけべでひとでなしで、でも笑うと途端にひとの好い顔になるので、このひとでなし野郎と思いつつもほだされてしまう。
プライドの高さの裏に自信の無さと脆さがほのみえてとてもかわいい。
クールな遊び人を気取ってるくせに、いざとなると未練たらしく往生際が悪くって、そこがまたたまらない。
どこ切ってもちょうタイプのそんな陳捍東を演じているのがただいま抱かれたい男ランキング1位の胡軍兄貴。なんかあたしもおどうしたら(錯乱)。
演技者としての胡軍は、「現場でカメラが回ってから、その役に入っていくのが好き」という直感番長の劉燁とは真逆に、綿密なシナリオ分析と考察を経たうえで人物造形を行うタイプだそうです。体力勝負の豪快さんかと思ってたので意外だった。意外といえばこのひとは、インタヴューの受け答えがものすごく明快かつインテリジェントなのだった。陳捍東を演じるために「たえず自分を修正し、自分を作り変え」ることを強いたといい、それでもなお、
「心理的な圧力からは最後まで完全には解放されなかった」
と語る。『藍宇』を撮影していたときは32歳。プロの役者としてそれまで培ってきたメソッドを一度すべて手放して、更地に家を建て直すような経験だったのだろう。YouTubeに上がっていた動画に台湾だか香港だかのトーク番組のやつがあって、『藍宇』の映像をみながらおもわず涙ぐんでしまう胡軍が印象的だった。
そんな過酷の果てに造形された陳捍東は、たいそう傲慢でたいそう繊細で、芯はひどく臆病でやさしい、そして見事に俗臭芬々たる中年男になっている。
「これはひとつの縁に過ぎない。互いのことを知りすぎればいずれ飽きが来る。飽きたときには別れよう」
そんなひどい言葉を捍東は、平然と藍宇にぶつけたりする。
恋にまつわる手管も駆け引きも知らず、無邪気に捍東を恋い慕うばかりだった藍宇がはっと胸を衝かれて、
「もう知りすぎた?」
とおずおずと訊ねる。まだだと答え、藍宇の髪の匂いをかいで、
「シャンプーはなにを使ってる?」
と逆に問う。
シナリオ的に巧妙といえばいえるがよくもそういう臆面も無い口説き文句をぬけぬけとおまいとゆう男は。それも含めてちょうタイプっすけど。
捍東の浮気に起因する諍いから一度は別れてしまったふたり。
しかし「縁」というものはおそろしいもので、みたび出逢ってしまうのが1989年6月4日。天安門事件の夜。
弾圧開始直前の6月3日夕刻、天安門広場に集まった学生たちのなかに藍宇を見かけた、と捍東は告げられる。
さしのべてやった手を拒絶して自分のもとから去った藍宇など、どうなろうと知ったことではない。
思い切ろうとしても思い切れない。思い切れない自分に困惑し混乱している。
ホテルの自室にバスローブ姿でぽつんと佇む捍東のうなじを転がりおちる一筋の汗が、彼の困惑を混乱を不安を、なにもかもひっくるめたういういしい「恋」を、無言で引き受けてとても美しい。
白いシャツを血に染め覚束ない足取りで戻ってきた藍宇をきつく抱く捍東。彼はようやく、藍宇が自分にとって得難い宝石なのだということを知り、ふたりは北京郊外の家で暮らしはじめる。
しかし「縁」というものはおそろしいもので、捍東は性懲りも無く藍宇を裏切るのだ。
以前、俺は林静平こそが自分を誘惑したサタンだとずっと思っていた。だが俺はまちがっていた。その悪魔は、実は俺自身だったのだ……。
林静平(リン・ジンピン)という美貌の才媛に、捍東は心奪われてしまう。そうして彼女と結婚するために(或いは結婚という行為によって、自分は立派に一人前の男に「なれる」のだということを証明するために)、捍東は藍宇を捨てる。
「撮影しながら泣いて、疲れはててしまった」
と語るように、この場面の劉燁は藍宇の絶望と悲嘆に完全に同期していて、たいそういたいたしい。
こういうことをこういうところで書くのもすげえはずかしいのですが。
劇中の藍宇と同じくらいの年齢のころ、藍宇とほとんど同じ体験を私はした。この別れの場面をみるたびに、そのときの自分に無理やり向き合わされるような心持ちになる。
もうみるのやめたい、やめようと思う。でも目を逸らすことができない。
だってカメラの前で劉燁が零す涙には微塵も嘘が無いから。
幼気で青い悲傷の涙のなかに、せいいっぱい背伸びした誠意があるから。
自分のなかの荊にしみこむ、それはあたかも慈雨のようだったから。
『藍宇』という映画と出逢ってからの3ヵ月ちかく、ほとんど同衾するような体で過ごしてきてしまった。いろいろな理由があるけれど、第一には劉燁の涙ゆえだ。自分がずっと求めていた「苦いお薬」と「あまいお菓子」というそのふたつが正しくそこにある。そう感じたんでした。
3年の結婚生活を経て陳捍東は林静平と離婚し、そしてある日、藍宇と「必然の再会」をする。
こうなるともはやこれって、「縁」というものの不可解さ理不尽さを説く寓話じゃないかとすら思えてくる。
捍東と別れてからの藍宇になにがあったか、映画は一切語らない。
すれちがいざま「藍宇」と名を呼ばれて振り向く。捍東をみるその表情だけで、語られない時間がどんなふうに彼の上を通り過ぎていったのか、瞬時に伝わってくる。最初の夜に戻ってしまったかのような憂鬱と不安と懐疑。自制。警戒。捍東は勿論それに気づいていて、うしろめたさをおぼえながらもひとの好い笑顔をつくって、些かも悪びれず、連絡先を教えろと藍宇にいう。ほんとうに毎度このひとは下心がまるみえで、いとおしいったら無いです。
この再会が冬。
藍宇のアパートメントを捍東が訪れる次の場面は、夏の終わり。
つまり藍宇が捍東を受け入れるまで、数ヵ月かかったということになる。
ささやかな時間経過の表現だけれど、藍宇の負った傷の深さ、捍東への想いの断絶というものが偲ばれる。
藍宇の部屋で向き合うふたりは、棘だの皮肉だの期待だのほのめかしだのをちらつかせながら、噛み合わない会話を交わす。關錦鵬監督が得意とする鏡を多用した演出のために虚実は混沌とし、言葉の下の真意は巧妙に隠され、捍東と藍宇の力関係までもが完全に逆転している。藍宇はTシャツに短パンというラフな恰好で、むきだしのナマ足のまんま捍東の前をうろつく。変わらず無邪気なようで、そういう姿態が捍東を欲情させるだろうこともいまの彼は十分に心得ている。その陰で、必死で自分を抑制してもいる。
深夜、どうしておまえを手放したんだろうと苦く呟く捍東に抱きすくめられ、なつかしいその腕のなかで藍宇は漸く放心する。
溺れないように。
愛し過ぎないように。
二度と傷つくことのないように。
ずっとそう思ってきた。でも、あらがったところで無駄。
「出逢ってしまった」ということがきっとたぶん負け。
捍東に抱き締められながら、藍宇はもう、捍東を見ていない。茫洋と恋に揺らぐ眸のまま、何処とも知れない闇を、彼はみつめている。
あなたは麻薬だ。手を出しちゃいけない。そしたら一生をだめにすると分かってる。なのにまた手を出してしまうんだ。
すべてを知ったうえで藍宇は捍東という「麻薬」に溺れることを選び、みずからの身を滅ぼす。
たとえば純愛というものをイメージするとき、そこには「金銭」という不純の介在する余地は無い。その愛の始まりがどうであったにせよ、最終的には不純を排除した関係に着地すること。それが純愛なるものにひとが託す理想と期待だし、『藍宇』もまた、そうした「皆様の理想と期待」に忠実な物語なのだろう。
観るまえは、そう思ってました。
実体はそこまでシンプルでもナイーヴでもなかった。王道であまったるくてロマンティックではあるけれど、酔ってはいない。素っ気ないほど淡々とした語り口、ふたりの「純愛」を俯瞰する視線はともすれば皮肉で、酷薄ですらある。
「愛」は浄く美しい善。「金銭」は汚穢にみちた悪。
そういう図式に乗っかってしまう愚を、この映画は注意深く避けている。
貧しい藍宇への救済の手段として、あるいは自身の力の(或いは彼が考える愛の)証として、捍東は金や車や家までも藍宇に与える。捍東というパトロンがいながら藍宇はつましくアルバイトを掛け持ちし、稼いだ金はすべて貯金している。それを知った捍東が、いずれ俺が落ちぶれたら貸してくれと笑う。それは冗談では終わらなくて、10年ののち、事業の不正を追及されて捍東が逮捕されたとき、藍宇は捍東を救うために、かつて彼が与えてくれた「金銭」を差し出すのだ。
「金銭」は身も蓋も無い現実として、彼らにつきまとう。金で愛を手に入れた。そもそもの出逢いがそうだった。それが罪だというのなら、この枷は罰なのか。周到に仕掛けられた呪いでもあるのだろうか。
その呪いから解き放たれる日がいつかくる。
まじりっけの無い「愛」を、きっともうすぐ手に入れられる。
そんな気配が過ぎった刹那。
ふたりのあいだのいわば貸借が漸くゼロになったとき、藍宇は突然の事故によって命を落とす。
献身の果てに、自身はなにごとも為し得ぬまま死ぬ。
ぼくが彼を愛したことが問題なのじゃない。
彼がぼくを愛さねばならないのだ。
どうしても。
トーマ・ヴェルナーからユリスモール・バイハンへの手紙/『トーマの心臓』(萩尾望都)
陳捍東は相愛の相手を永遠に喪う。
罪と罰の繰り返しだった10年。裏を打つ汚濁を、傷の痛みを、破約の苦さを舐めつくしてはじめて捍東は、ほんとうの愛がどういうものかを知る。
若さという美しさも、かつて手にしていた力も、既に彼には無い。藍宇のいない世界に取り残され、俺の人生は失敗ばかりと自嘲しながら、それでも、生きてゆかざるを得ない。
独り地を這う捍東の悲哀を、その先に待つ不遇を。
掴み損ねた空の藍だけが、いつまでもいつまでもいつまでも、みつめている。
THE BACK HORNというバンドの、一番大好きな歌のタイトルを、表題に使わせていただきました。
この映画をみているあいだ、ずっとこの曲が自分のどこかで響いていました。
“美しい名前”。
君のその名前がとても美しい、ということ。
それを知ること。
声に出して、その美しい名前を呼んでみること。
奇妙な「縁」に翻弄されたふたりの恋のはじまりはきっと、ただそれだけのことだったのだろうと思うのです。
(「神変紅丼」より転載・一部改稿)