KISS AND RUN. ──『東宮西宮/East Palace, West Palace』
2009.09.29 Tuesday
北京・紫禁城の脇にある公衆トイレ“東宮西宮”に集まるゲイたち、彼らを取り締まる警察。つかまった男たちの中に、警官に艶然と、挑発的に微笑みかける青年がいた。その彼、作家のアランに好奇心と憎悪の入り交じった尋問を続ける革ジャンの刑事。そんな気持ちを見透かしながら、アランはゲイとしての自分の半生を語り始める。
東軍西軍といえば天下分け目の関ヶ原(すみません石田と大谷が好きなんですすみません)。
東宮西宮とは中国語の辞書によれば
東宮[donggong]:皇太子の住む所。皇太子。
西宮[xigong]:皇帝の妃嬪の住まい、またはその人の称。
(中日辞典/小学館)
そのような意味だそうです。
このお話のなかの「東宮」と「西宮」は、故宮を挟んで東にある人民文化宮と西にある中山公園、そのなかの、いわゆるハッテン場としての公衆便所を指します。
同時に、北京のゲイ・コミュニティそのものも指す隠語なのだそうです。
さて。
趙雲@赤壁後の胡軍作品として、まずなにを観るべきなのか。
と思ったとき自分は一も二も無く『藍宇』だったわけで。
一も二も無く『藍宇』選んだ自分の野性すげえ!ぐらいの天狗っぷりだったですが、その後ネット巡りをしていましたら、「くさってない一般人が赤壁直後にいきなり『藍宇』観るのはきつい」という御意見もあったりなんかして。
えええええ。
あんなかわいらしい普遍的恋愛映画できついっていうんなら、じゃあこの映画の位置付けってどうなのよ。
そりゃべつに私がくさっているから「そういう」題材が好きだということではなくってですね。すくなくとも
「胡軍という演技者を堪能する」
という一点において、『東宮西宮』はとても優れた作品だと思いますよ。
この映画の「小史」という役を演じた彼だからこその陳捍東であり趙雲子龍だったんだなあと、思いましたよ。
けどまあ実際は、なんてなこと思う間も無く麻薬的快感に身を攫われる。
そんな蟻地獄な秋の夜長だったわけなんだが。
「同性を愛することが罪に問われる街で生きる同性愛者」
という点に於いて、この映画の主人公阿蘭(司汗/スー・ハン)は藍宇の同類と言える。そしてふたつの映画はまた、僅差はあっても、ほぼ同じ時代を舞台にしている。
でも奇妙なことに『藍宇』が描く北京という街には、そのような「罪」を意識させる翳ったところが微塵も無い。
ていうかそもそも「北京」である必要が何処にも無い。
『藍宇』は、陳捍東と藍宇のその10年のほとんどが室内で進行する物語であって、彼らにとってははなから「その外」など無いに等しい。
捍東が住まうホテルの部屋から、
内装が完成しないまま放棄されたふたりの「北欧」から、
そして藍宇の、あのささやかに美しい、木画の小筺のような部屋から、
一歩踏み出した途端、「その外」など敢え無く潰えてしまうのだと錯覚してしまうほどに、
だってあなたを残してどいつもいらない
(「トリフィドの日が来ても二人だけは生き抜く」/大槻ケンヂ)
もう、潔いほど容赦無くきっぱりと、「あなた以外の他者」を拒絶してるとこが『藍宇』にはある。
だから私がここまで血を冒されてしまうんですけど。
それはたぶん、藍宇という子の生理にもよるのだろう。
藍宇は善良で聡明な子だけれど、はじめて抱かれた男だけをあんなにもまっすぐにみつめていられるあの「純情」、あの「ひたむき」は、コントロールし損なえばあっさりと狂気に滑る。と思えば「けっ、だせえな」と吐き捨てがちな邦題「情熱の嵐」ってあんがい言い得て妙なのか。ま、そういう凄まじさについて本人自覚があるんだか無いんだか知れないぼーっとした佇まいがまた、佳い景色といえばいえるんですけど。
自分が同性愛者であること、「同性を愛することが罪に問われる街で生きる同性愛者」であることに自覚的にならざるを得ない阿蘭という同性愛者が、罪に問う側である権威=警官・小史(胡軍)に、己の来し方を語る。
『東宮西宮』は、彼らの長く短いその一夜を描く物語。
概ね室内劇だった『藍宇』と同じく『東宮西宮』も、「夜の公園の派出所」という限定された場での、小史と阿蘭のダイアローグによって進行していきます。
この派出所がしかし、派出所という事務的な殺伐とはまるで相容れず、夜の森のなかで、ひたすらに美しい。
茶の濃淡に空色をアクセントに使った寄せ木の床とか。
複雑な透かし文様を刻む鉄扉とか。
漆黒の木枠でふちどられた大きな鏡とか。
建物の造りや調度のあしらい、小史が夜食のインスタントラーメン状のものを作るステンレス製のチープな器まで(作ったラーメン状のものを三口か四口でずぞぞぞと完食しちまう男っぷりも含め)いちいちよくって。
中国的な意匠、樹木や花鳥をモチーフにつかう東洋趣味と工業的な無機な器物の組み合わせってものは、なんだか曰く言い難く好きだわ。
(……と思ってふと気づけば、『東宮西宮』を撮影した「張健」というかたは、『藍宇』の撮影スタッフにも名を連ねていたのでした。ああなるほど、そのせいもあったか、あのしみいるように美しい、何処か懐かしい絵ってものは。と、胸に落ちました。)
巨大な鳥籠にも似たそんな場所で行われる、血の滲むような言葉の応酬。『東宮西宮』は映画というよりも舞台劇的で、小史と阿蘭はどこかしら『欲望という名の電車』のスタンレー・コワルスキーとブランチ・デュボアみたい──って書いてみて、胡軍が演るスタンレー・コワルスキーってどんなにかおそろしくどんなにか素敵だろうか、とちょっと茫然自失の体です。
『東宮西宮』は1996年製作というから、ここでの胡軍はまだ28歳。撮影時はそれよりもさらに若かった筈で、絵に描いたように「強権的で傲慢な若いおまわりさん」です。粗野で周到で繊細で、狡猾で酷薄で、なおかつ無垢でもあるという。
最初に公園で小史に拘束されかけたとき、阿蘭はいきなり小史の頬に接吻し、身を翻して逃げ去る。彼を見送る小史の眸は、驚愕と戸惑いの陰に、わずかに傷ついたような色を湛えている。
警官の制服を纏って、わかりやすい「力と権威」を纏って、しかしそれがまるで通用しない相手にはじめて出逢った。
自分のなかに睡る、自分でも気づかなかった(或いは、気づかない振りをしつづけてきた)ものを、キスひとつで目覚めさせられた。
そんなふうに自分を目覚めさせてしまった相手。それがなにものなのか見極め、そしてねじ伏せてやりたい。
小史がふたたび阿蘭を捕らえ、心身共に嬲るような尋問を試みるのはそういう思いがあったからだろうし、阿蘭は阿蘭で小史の眸を覗き込んだ刹那、相手が自分の同類であると(つまり同性を愛する男であると)悟ってしまう。
だから、敢えて易々と小史の手のなかに落ちてみせる。
いまだ平然と無垢なままでいる小史を、
自分たちを理由無く虐げつづける「力と権威」そのものを、
誘惑し跪かせるために敢えて屈辱を舐める。
『東宮西宮』というタイトルそのものが対置になっているように、ここで描かれるのは相対しつつ背きあうふたつの世界。仮想的な殺し合いのような一夜をかけて阿蘭が小史に語って聞かせるのは、謂われ無き暴力にさらされつづけた被虐の半生。その回想のなかで阿蘭を犯す顔の無い男たちをすべて小史=胡軍が演じている。
台詞は一切無い。
殆どが手だけによる芝居。
阿蘭に苦痛と快感をあたえる彼の武骨なその手、その表情、その動き。
阿蘭の手首と己の手首をひとつの手錠で繋ぎ、そのくちびるに噛みつくようにくちづける小史=胡軍の、憎悪と欲情が綯い交ざった、射竦めるようなあのきついまなざし。
官能的過ぎて涙がでそうです。
映画そのものについていえば、阿蘭が(その容姿も含めて)「女」に傾き過ぎているあたりに、私は最後まであまり共感がもてなかった。ゲイを取り上げたフィクションではいつもそうなのですが、私自身が「女」であることに対して10代のころから感じつづけている居心地の悪さのようなものを、あらためて見せ付けられるところがある。
そしてそこから、私が私として生きるってなんなのか、考えはじめたりもする。
『藍宇』は言うに及ばずこの『東宮西宮』もまた、そのような作品でした。
けどまあ実際は、なんてなこと思う間も無く麻薬的快感に身を攫われ蟻地獄に堕ちてしまっている体たらくなわけですが。
趙雲落ちの其処の貴方も、御縁があれば、ぜひ御覧くださいませ。
なにより胡軍さんがあまりにも美しい映画です、これは。