トウで踏みにじれ。──『ブラック・スワン』
2011.05.22 Sunday
14歳だったか15歳だったかわすれた。日曜日の昼下がりにぼんやりテレビをみていたら、外国の映画が始まった。
バレエの映画だった。
きれいな赤毛のバレリーナがヒロインで、最初は華やかに舞台で踊っていたのになんだかどんどん不幸になって、うすぐらい、こわいところへどんどん踏み迷っていって、白いロマンティックチュチュがきたない襤褸みたいになって、それでも踊りやめることができない。
バレリーナに食らいついて死ぬまで彼女を踊らせる深紅のトウシューズ。
純白のタイツの足に咲く鮮血の花。
生と死が二重映しになった「赤」のイメージを、その夜、なまなましく夢に見た。
映画のタイトルは『赤い靴(The Red Shoes)』という。
『赤い靴』に出会うまで、バレエとはただふわふわきらきらと美しいばかりの、粉砂糖の雪が降る夢のような、どこまでもあまったるい世界だと思っていた。
でも『赤い靴』が私に見せたのはそんなものじゃなかった。
「ふわふわ」や「きらきら」の下には血や肉や骨片のまじりあった「どろどろ」がある。「芸術」という美と魔はその「どろどろ」を踏みにじり、髄までしゃぶりつくして、誰もみたことのない、世にも美しい花をひらかせる。
光の代償は闇。
花の代償は孤独。
『赤い靴』は10代の私に、つまりそういうことを教えてくれた。
『ブラック・スワン』が描いているのもやっぱりそういうものだ。
──The only person standing in your way is YOU.
汗のにおい。
蒸れてふやけた繻子のにおい。
爪先から噴き出る血のにおい。
白鳥の棲む湖のにおい。
腐った水草のにおい。
ぶつぶつと粟立つ肌のにおい。
化膿した傷のにおい。
鳥の羽毛と糞のにおい。
映画を観ているうちに、するはずもないあらゆる「におい」が渾然となって鼻孔に刺さり、神経に無数のひっかき傷を残していく。
忍び笑い。鳥の羽ばたき。木の床をこする跫音。ゆらゆらと伸びる影。走り去る気配。
ヒロイン、ニナ(ナタリー・ポートマン)の断ち切れそうな硝子の神経をさらにさらに痛めつけるが如く、不気味なイメージと音声の釣瓶打ち。芸道ヒロインもので、サイコサスペンスで、ホラーで、どこか古風な怪談で、とても官能的。観ている私もニナに完全に同期して、どこまでがほんとでどこからが嘘なのか、どんどんわからなくなっていく。
──White dreams. Black obsession.
白鳥オデット(=善、清浄、抑制)と黒鳥オディール(=悪、汚濁、衝動)の、「愛」をめぐる対立と相剋の物語『白鳥の湖』。スワン・クイーンに選ばれたニナ。ライバル、リリー(ミラ・クニス)、凋落したプリマ、ベス(ウィノナ・ライダー)、そして母エリカ(バーバラ・ハーシー)。ニナの行く手を塞ぐ彼女たちは、闇からの邪悪な誘惑者のようだけれど、じつはそれらすべてはニナの姿でもある。
ニナの変身のための呪具として使われるのが「鏡」。劇場の楽屋。練習スタジオ。ニナと母親が暮らすアッパー・ウエストのアパートメント。どの場面にも、気づけば鏡がある。虚と実を曖昧にさせるもの。ほんとうの自分を暴きたてるもの。平然と嘘をつくもの。隔てるもの。融けこむもの。反転させるもの。
「鏡」とか「二面性」とか「二元」といった、自分が否応無しに取り憑かれてしまう道具立てが悉く揃っている。というかやっぱり普遍的なテーマなのだこれらは。普遍だからこそ、凡手が書きゃいくらでもつまんない物語になる。
『ブラック・スワン』がつまんない物語にならなかったのは、偏に監督ダーレン・アロノフスキーと主演女優ナタリー・ポートマンの志の高さと、執念と、情熱の賜物なのだろう。
──I just want to be PERFECT.
ナタリー・ポートマンはかくべつすきな女優ではないが、たとえば『赤い靴』の少しあとに読んだ『アラベスク』(山岸凉子)のノンナ・ペトロワ、『SWAN』(有吉京子)の聖真澄の系譜に正しく則った、繊細かつ強靱で臆病かつ大胆という、バレエもののヒロインかくあるべきな存在感である。
鍛えぬき縒りあわされた鋼の筋肉と権高な美貌。
ひきかえ不安を隠せぬ目をおどおどと宙にさまよわせ、ききとれないほどの声で、
「わたし、完璧でありたいんです」
とバレエ団の芸術監督ルロワ(ヴァンサン・カッセル)に吐露する。
純白の白鳥が水のなかに隠している足は黒く醜い。ニナが己の欲望を暴きたて解き放ち、舞台でみせる32回のグラン・フェッテ。肉体は変形し、白皙の肌が漆黒の羽毛で覆われ、両腕は翼へとかわる。その翼をたかだかとかざして黒鳥があげる凱歌。脆弱なお姫様から観客を誘惑する表現者という魔へ、ニナが凄まじい変身を遂げるクライマックスには文字どおり鳥肌が立つ。
翻弄され嬲られ苦しみぬいた挙げ句に、闇を走り抜けたニナがつかんだ「完璧」という一瞬の光。
儚く、圧倒的な勝利感。
漆黒のトウで誇らかに踏みにじる世界。
エンドロールが流れきっても涙がとまらなかった。
マーティン・スコセッシ監修による『赤い靴 デジタルリマスター・エディション』今夏公開されます。公式サイト。→■
『ブラック・スワン』に溺れちゃったというかたは、ぜひぜひこちらもごらんくださいませ。