シガ フタリヲ ワカツマデ。──『藍宇』其の拾参
2011.05.13 Friday
雨模様の日曜日。
昼から夕刻まで、図書館で調べものをした。
やまもりの資料抱えて閲覧席に座ったら、斜めまえに小娘の時分からの憧れであった役者さんがいらした。やまもりの資料を全部床に落とすかとおもった。今年70歳になる彼は細い銀縁のめがねをかけて、うつむいて、たいそう静かに本を(禅についての本だった)読んでいらした。鼻血でるかとおもったすてきすぎて。ときどきチラ見なんかしてうわのそらになったりもしながら、マルクスとかベンヤミンとかアルチュセールとかもうまるでさっぱりわけわからん大量の書物に埋もれ、作家の引用箇所を嗅ぎあて(500ページ強の本のなかのどこかにある1行をみつける、ような作業)ゲラと照合するという仕事を数時間やった。
閉館間際になって、偶さかこんな文章にゆきあたる。
『アメリカ素描』という本のなかの「少数民族『ゲイ』」という章。
書いたのは司馬遼太郎。
司馬遼太郎がゲイというひとたちについてこういう文章を書いていることに少なからず驚く。
司馬遼太郎の小説には衆道(男色)についてのそのまんまな話もそのまんまじゃないがどうもそれ臭い描写も出てくるが、ご本人はむしろそういうもんがきらいなのだろうと思っていた。
「愛の水圧のちがうところで棲息し、愛以外には考えていないという感じだった。」
そんな美しい言葉をやわらかい筆致で書きつけるひとだとは、思っていなかった。
性別が女で男のひとがすきな私は「ヘテロセクシュアル」という仕分けになるのだろうが、ほんとをいえば私自身が男性になって男性を愛せたらどんなにか良いだろう、と小娘の時分からずっと思っている。件の役者さんも、男性になってこのかたを愛せたら、と願った対象でもあったりした。
でもそんなことは叶わない。
私が結婚も生殖もしないでいるのはその「叶わなさ」への心中立てのようなものだろう。
『藍宇』という映画への執着も親愛も多分にその「叶わなさ」から発しているのだろう。
互いを見知った10年のうちの僅か数ヵ月ばかりを彼らがともに暮らしたあの部屋。愛の水圧のちがう場所。愛以外のことはなにひとつ考えない。私が心底ほしいものがなにもかもぜんぶあそこにある。なにもかもぜんぶあるからぜったいにたどりつけないあの部屋。
ほへとさんの数秘術によれば私は「2 EX Std5」。
『藍宇』と出逢った2年前の2009年5月13日の数秘はどうだったのかなとおもってみてみたら「2 EX ab」だった。
やさしさと冷たさが同居し、一貫性が無く、数秘一の身体能力をもち、すこぶる感情的な数秘2と。
人を超えた感受性とパワーを持ち、世の常識に囚われず狂っている補正オプションEX。
重なっちゃっていた。
ああなんかもうどうしようも無えなあと苦笑嘆息してしまった今日でした。
ほんとをいえば漂泊も孤独もだいきらい。
漂泊も孤独も馴れてしまえばろくでもない惰性だ。かっこわるい。でもどうやら自分は漂泊とか孤独とかを凌いでいけるスペックみたい。水圧のちがうところで生成され出荷された機械。水圧のちがうところにはもう還れないし機械に合わないとろくさいメーターしかついてない。呼吸はしづらいけど呼吸する場所はここしか無いからここに居る。ここに居て吸っては吐いてのくりかえしを数えながら、たどりつけない何処かにあるちいさなあの部屋を渇望している。
昼から夕刻まで、図書館で調べものをした。
やまもりの資料抱えて閲覧席に座ったら、斜めまえに小娘の時分からの憧れであった役者さんがいらした。やまもりの資料を全部床に落とすかとおもった。今年70歳になる彼は細い銀縁のめがねをかけて、うつむいて、たいそう静かに本を(禅についての本だった)読んでいらした。鼻血でるかとおもったすてきすぎて。ときどきチラ見なんかしてうわのそらになったりもしながら、マルクスとかベンヤミンとかアルチュセールとかもうまるでさっぱりわけわからん大量の書物に埋もれ、作家の引用箇所を嗅ぎあて(500ページ強の本のなかのどこかにある1行をみつける、ような作業)ゲラと照合するという仕事を数時間やった。
閉館間際になって、偶さかこんな文章にゆきあたる。
ふるい話になる。
私は、昭和二十三、四年ごろ、京都で、愛でむすびあっている中年の男同士のカップルを知っていて、以後、このひとたちに対する偏見がなくなった。どちらも妻帯者で、どちらも紳士服のいい腕の仕立職人だった。ゲイ(陽気な)という言葉どおりのひとで、冗談がうまく、双方に節度があり、私のような“異文化”の者を退屈させなかった。
その仲は深海魚のようだと思った。愛の水圧のちがうところで棲息し、愛以外には考えていないという感じだった。
『アメリカ素描』という本のなかの「少数民族『ゲイ』」という章。
書いたのは司馬遼太郎。
司馬遼太郎がゲイというひとたちについてこういう文章を書いていることに少なからず驚く。
司馬遼太郎の小説には衆道(男色)についてのそのまんまな話もそのまんまじゃないがどうもそれ臭い描写も出てくるが、ご本人はむしろそういうもんがきらいなのだろうと思っていた。
「愛の水圧のちがうところで棲息し、愛以外には考えていないという感じだった。」
そんな美しい言葉をやわらかい筆致で書きつけるひとだとは、思っていなかった。
性別が女で男のひとがすきな私は「ヘテロセクシュアル」という仕分けになるのだろうが、ほんとをいえば私自身が男性になって男性を愛せたらどんなにか良いだろう、と小娘の時分からずっと思っている。件の役者さんも、男性になってこのかたを愛せたら、と願った対象でもあったりした。
でもそんなことは叶わない。
私が結婚も生殖もしないでいるのはその「叶わなさ」への心中立てのようなものだろう。
『藍宇』という映画への執着も親愛も多分にその「叶わなさ」から発しているのだろう。
互いを見知った10年のうちの僅か数ヵ月ばかりを彼らがともに暮らしたあの部屋。愛の水圧のちがう場所。愛以外のことはなにひとつ考えない。私が心底ほしいものがなにもかもぜんぶあそこにある。なにもかもぜんぶあるからぜったいにたどりつけないあの部屋。
ほへとさんの数秘術によれば私は「2 EX Std5」。
『藍宇』と出逢った2年前の2009年5月13日の数秘はどうだったのかなとおもってみてみたら「2 EX ab」だった。
やさしさと冷たさが同居し、一貫性が無く、数秘一の身体能力をもち、すこぶる感情的な数秘2と。
人を超えた感受性とパワーを持ち、世の常識に囚われず狂っている補正オプションEX。
重なっちゃっていた。
ああなんかもうどうしようも無えなあと苦笑嘆息してしまった今日でした。
ほんとをいえば漂泊も孤独もだいきらい。
漂泊も孤独も馴れてしまえばろくでもない惰性だ。かっこわるい。でもどうやら自分は漂泊とか孤独とかを凌いでいけるスペックみたい。水圧のちがうところで生成され出荷された機械。水圧のちがうところにはもう還れないし機械に合わないとろくさいメーターしかついてない。呼吸はしづらいけど呼吸する場所はここしか無いからここに居る。ここに居て吸っては吐いてのくりかえしを数えながら、たどりつけない何処かにあるちいさなあの部屋を渇望している。