地久天長。──『藍色宇宙/MAKING BLUE』
2011.02.10 Thursday
賛否両論はあるだろうけど
悲しみの色は必ずblue
我失敗了。
宇宙は陳捍東の苦いひとことでひらかれる。
そして、陳捍東を演じた胡軍が自身の声で引導渡すかのように、終尾にその日付を刻みつける。
2001年2月10日
下午三點半的時候
收工了
そのように宇宙はとじられた。
『藍宇』の撮影は終わり、そして2011年2月10日──本日を以て10年が過ぎた。
10年まえ。
2001年2月10日。
一生に一度しか無かったその日に、自分はいったいなにをしていたのだろう。なにをしていたのだかもう思い出せない。とてもとてもすきだったバンドが年頭のライヴを一期にその活動を休止したばかりだった。身体のなかにぽかんと生まれた、なにを以ても埋められない、疎ましい虚をもてあましながら、ぼんやりと過ごしていたのだろう。一生に一度しか無かったその日を。
ぼんやりと過ごしていたあいだに、2000キロほども離れた寒い街で、その物語には終止符が打たれていた。
なんだか途方も無い。
『藍色宇宙』という37分21秒のふしぎなフィルムは、10年後の自分が思い返す、その途方も無さの記憶と記録。
陳捍東と藍宇の10年を描く『藍宇』。
それ自身も10年を経ていまここに在る、という事実もじつに途方も無い。
とらえどころも無く果てしも無い此の世で『藍宇』は、逢えるか逢えぬかもわからない私を慎ましやかに待っていてくれた。莫迦は承知で自惚れてみる。『藍宇』の過ごした10年。最後の最後に私は辛うじて間に合ったのだと。
ここをつくったとき、「ブログの説明文」というのを決めなくてはいけなかった。そういう莫迦状態を説明するのには誂え向きの表現だと思って、
「是我有病。」
というものにした。
これは『藍宇』では無く『藍色宇宙』で藍宇が口にする言葉。
『藍宇』において藍宇は、「有病」という言葉を二度口にする。
捍東とのたぶんはじめてのデートのときの一度目と、10年を経て、死をまえにした情交のあとで、はずむ息の下から洩らす二度目。
『藍色宇宙』の藍宇は『藍宇』の藍宇とはぜんぜんちがう何処かにいる。おそらく私たちが彼岸と呼んでいるような場所に。冥い河を隔てた向こうの岸から、我失敗了とつぶやく此岸の恋人をみつめている。『藍色宇宙』で藍宇が呟く「是我有病。」も、だから本編のどちらとも、ぜんぜんちがってしまっている。
老成した声音。この病を癒す術などありはしないという諦観。滲む自嘲。
『北京故事』のなかで「もう僕は人間じゃない」と、漸う十八ばかりの藍宇が口にするその虚無。
劉の声を借りて、ここで再生されている。
『藍宇』を観ていてどうかすると三島由紀夫の『豊饒の海』という長大な物語を思い出したりする。夭逝した美しい友人・松枝清顕の転生者を追って長い旅をする本多繁邦。此岸に置き去られた陳捍東に重ねて見たい。本多繁邦と安永透を『藍宇』当時の胡軍と劉で見てみたい。そういうあられもない欲望がしくしくと疼いていたりなんかする。
しかしそんなことでも無くて。
第四部「天人五衰」の最後で本多繁邦へ放たれる月修寺門跡、俗名綾倉聡子の言葉に縛られているせいだ。
「松枝清顕」を「藍宇」に置き換えれば、私が『藍宇』という物語に、藍宇という名であらわされるものに感じている気持ちがつかのま、くっきりとする。自分がもれなく病に堕ちてしまう対象、有機無機問わずそのすべてはどうやら、
「もともとあらしやらなかつた」
「実ははじめから、どこにもをられなんだ」
ようなものらしいから。
確かにそこにあるのに永劫触れてはいけないもの。言葉に直せばそれは「あこがれ」に、ちかいといえばちかいけれど、「あこがれ」といいきってしまえばするりと逃げて、「もともとあらしやらなかつた」「どこにもをられなんだ」になって堂々巡りだ。1988年8月の夜に撞球場で陳捍東が出逢ったのも、そんなものだったのだろうか。名も貌も持たなかったもの。捍東が名を訊ね劉征が答え、そして捍東は其処にあらわれた「藍宇」を見て恋に落ちる。本編はそのとき捍東の視線の先にいた「藍宇」というものを映さない。『藍色宇宙』でカメラは捍東のまなざしを借りて、そのとき捍東が恋をした「藍宇」の残像を見せる。
田舎芝居の書き割りみたいな背景、そこに置かれた男の子はもじもじと居心地が悪そうだ。無遠慮に値踏みする男の目。率直な欲望と狡猾な手管。そんなものに生まれてはじめて曝されて、必死で動揺をはぐらかしている姿態。野暮臭く垢抜けないのにあとをひくふしぎな蠱惑。金で売り買いされる約束の、意志をもたないものゆえのなまめかしさ。真夜中過ぎには奪われてしまうヴァージニティ。あやうさとか傷ましさとか鬱陶しさとか鈍鈍しさとか、いろんなものがごっちゃになった混沌、そのど真ん中を射貫いて「藍宇」という美しい名前が与えられる。
畜生。
誰だって恋に落ちる。
『藍宇』は数えきれないほど再生しているけれど、『藍色宇宙』はそれに遠く及ばない。
つかみどころが無くって往生する。微に入り細を穿ってひとこまずつ読んでいく作業なんか、どれだけしたところで歯なんか立ちゃしない。
昨年、ある出来事がきっかけで一旦これを封じてしまった。それからずっと観ていなかった。感想文も、このまま書かなくっても良いやと投げた。
10年に託けて久しぶりに観てみたら、感想文そっちのけでひたすら照れた。
中学校の同窓会で再会した幼馴染みふたりが10年前から不倫関係になってました的な? しかもその片割れは自分のはつ恋の相手でした的な、そういうかんじ。捍東と藍宇の最初の夜の場面のリハとか観ていてなんだかもう身の置きどころも無くって。そのくせ目は關錦鵬並みにがっつりアツく胡軍の手の動きをなめていたりして。はっと正気にかえってますます身の置きどころが無くって。
はじめて観たときから今日でちょうど1年と9ヵ月。そのあいだに『藍宇』以外の胡軍と劉にすっかり馴染んでしまったためか、そして彼らふたりも10年という時間を経て今日に至っているためか、2011年と2001年は版ずれ起こしたように微妙な隙間を孕んで、うまく重なってくれない。
戸惑う。
戸惑いながら書いたものだから、これもひどく取り留めの無い文章になってしまった。
照れながら戸惑いながら、でも泣けた。
しんじつ途方も無いのはひとというものの情熱と純情なんだと思った。
その途方も無さの記憶と記録だった。
結果では無く工程に向けて傾けられた、ありったけの誠実。
感応した者だけがこの映画を深深と愛してしまうのだろう。
素っ気なく不親切な『藍宇』。
そのわからなさをわかるためのツールとして、この『藍色宇宙』があるとは微塵も思わない。
ストーリーラインの不明なんか想像力と読解力がありゃ補える。自分の場合はそこからほんとうの「わからない」がはじまった。とらえどころも無く果てしも無い。無情な迄に美しい藍色の宇宙は、ただ茫茫とひろがる。命綱は疾うに棄てた。だからもう何処にも還れない。
many thanks to:
“星のブルース”, performed by KAZUYA YOSHII
それ自身も10年を経ていまここに在る、という事実もじつに途方も無い。
とらえどころも無く果てしも無い此の世で『藍宇』は、逢えるか逢えぬかもわからない私を慎ましやかに待っていてくれた。莫迦は承知で自惚れてみる。『藍宇』の過ごした10年。最後の最後に私は辛うじて間に合ったのだと。
ここをつくったとき、「ブログの説明文」というのを決めなくてはいけなかった。そういう莫迦状態を説明するのには誂え向きの表現だと思って、
「是我有病。」
というものにした。
これは『藍宇』では無く『藍色宇宙』で藍宇が口にする言葉。
『藍宇』において藍宇は、「有病」という言葉を二度口にする。
捍東とのたぶんはじめてのデートのときの一度目と、10年を経て、死をまえにした情交のあとで、はずむ息の下から洩らす二度目。
『藍色宇宙』の藍宇は『藍宇』の藍宇とはぜんぜんちがう何処かにいる。おそらく私たちが彼岸と呼んでいるような場所に。冥い河を隔てた向こうの岸から、我失敗了とつぶやく此岸の恋人をみつめている。『藍色宇宙』で藍宇が呟く「是我有病。」も、だから本編のどちらとも、ぜんぜんちがってしまっている。
老成した声音。この病を癒す術などありはしないという諦観。滲む自嘲。
『北京故事』のなかで「もう僕は人間じゃない」と、漸う十八ばかりの藍宇が口にするその虚無。
劉の声を借りて、ここで再生されている。
『藍宇』を観ていてどうかすると三島由紀夫の『豊饒の海』という長大な物語を思い出したりする。夭逝した美しい友人・松枝清顕の転生者を追って長い旅をする本多繁邦。此岸に置き去られた陳捍東に重ねて見たい。本多繁邦と安永透を『藍宇』当時の胡軍と劉で見てみたい。そういうあられもない欲望がしくしくと疼いていたりなんかする。
しかしそんなことでも無くて。
第四部「天人五衰」の最後で本多繁邦へ放たれる月修寺門跡、俗名綾倉聡子の言葉に縛られているせいだ。
松枝清顕さんといふ方は、お名をきいたこともありません。そんなお方は、もともとあらしやらなかつたのと違ひますか? 何やら本多さんが、あるやうに思うてあらしやつて、実ははじめから、どこにもをられなんだ、といふことではありませんか?
「松枝清顕」を「藍宇」に置き換えれば、私が『藍宇』という物語に、藍宇という名であらわされるものに感じている気持ちがつかのま、くっきりとする。自分がもれなく病に堕ちてしまう対象、有機無機問わずそのすべてはどうやら、
「もともとあらしやらなかつた」
「実ははじめから、どこにもをられなんだ」
ようなものらしいから。
確かにそこにあるのに永劫触れてはいけないもの。言葉に直せばそれは「あこがれ」に、ちかいといえばちかいけれど、「あこがれ」といいきってしまえばするりと逃げて、「もともとあらしやらなかつた」「どこにもをられなんだ」になって堂々巡りだ。1988年8月の夜に撞球場で陳捍東が出逢ったのも、そんなものだったのだろうか。名も貌も持たなかったもの。捍東が名を訊ね劉征が答え、そして捍東は其処にあらわれた「藍宇」を見て恋に落ちる。本編はそのとき捍東の視線の先にいた「藍宇」というものを映さない。『藍色宇宙』でカメラは捍東のまなざしを借りて、そのとき捍東が恋をした「藍宇」の残像を見せる。
田舎芝居の書き割りみたいな背景、そこに置かれた男の子はもじもじと居心地が悪そうだ。無遠慮に値踏みする男の目。率直な欲望と狡猾な手管。そんなものに生まれてはじめて曝されて、必死で動揺をはぐらかしている姿態。野暮臭く垢抜けないのにあとをひくふしぎな蠱惑。金で売り買いされる約束の、意志をもたないものゆえのなまめかしさ。真夜中過ぎには奪われてしまうヴァージニティ。あやうさとか傷ましさとか鬱陶しさとか鈍鈍しさとか、いろんなものがごっちゃになった混沌、そのど真ん中を射貫いて「藍宇」という美しい名前が与えられる。
畜生。
誰だって恋に落ちる。
『藍宇』は数えきれないほど再生しているけれど、『藍色宇宙』はそれに遠く及ばない。
つかみどころが無くって往生する。微に入り細を穿ってひとこまずつ読んでいく作業なんか、どれだけしたところで歯なんか立ちゃしない。
昨年、ある出来事がきっかけで一旦これを封じてしまった。それからずっと観ていなかった。感想文も、このまま書かなくっても良いやと投げた。
10年に託けて久しぶりに観てみたら、感想文そっちのけでひたすら照れた。
中学校の同窓会で再会した幼馴染みふたりが10年前から不倫関係になってました的な? しかもその片割れは自分のはつ恋の相手でした的な、そういうかんじ。捍東と藍宇の最初の夜の場面のリハとか観ていてなんだかもう身の置きどころも無くって。そのくせ目は關錦鵬並みにがっつりアツく胡軍の手の動きをなめていたりして。はっと正気にかえってますます身の置きどころが無くって。
はじめて観たときから今日でちょうど1年と9ヵ月。そのあいだに『藍宇』以外の胡軍と劉にすっかり馴染んでしまったためか、そして彼らふたりも10年という時間を経て今日に至っているためか、2011年と2001年は版ずれ起こしたように微妙な隙間を孕んで、うまく重なってくれない。
戸惑う。
戸惑いながら書いたものだから、これもひどく取り留めの無い文章になってしまった。
照れながら戸惑いながら、でも泣けた。
しんじつ途方も無いのはひとというものの情熱と純情なんだと思った。
その途方も無さの記憶と記録だった。
結果では無く工程に向けて傾けられた、ありったけの誠実。
感応した者だけがこの映画を深深と愛してしまうのだろう。
素っ気なく不親切な『藍宇』。
そのわからなさをわかるためのツールとして、この『藍色宇宙』があるとは微塵も思わない。
ストーリーラインの不明なんか想像力と読解力がありゃ補える。自分の場合はそこからほんとうの「わからない」がはじまった。とらえどころも無く果てしも無い。無情な迄に美しい藍色の宇宙は、ただ茫茫とひろがる。命綱は疾うに棄てた。だからもう何処にも還れない。
さよならは何度でも言う そのための一生でもある
君と夜空を見上げてる 星のどっかから呼んで呼んでブルース
many thanks to:
“星のブルース”, performed by KAZUYA YOSHII