蛇果─hebiichigo─

是我有病。

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ぶらり上環・歩いて観る『孫文の義士団/十月围城』。




そもそものはじまりは7年前。画像検索をしていて『孫文の義士団/十月围城』のプレスシートらしき書類を拾ったことでした。
PDFファイルの情報をみると、「2010年10月31日日曜日19時21分に保存」となっています。
その4日前、10月27日(水)に東京都写真美術館ホールへ『ボディガード&アサシンズ』(「2010東京・中国映画週間」上映時の邦題)を観に行って感想文を書いています。日本での一般公開は決まっていたもののまだまだ先で、その前にこの映画の情報を少しでも集めようと鬼のようになっていた時期でした。一部を抜粋しますと、ざっとこんなかんじです。
(※クリックすると大きくなります)






テキストはすべて英文です。日本公開時に翻訳されたものが映画関係の方に配布されたのかどうか、映画関係者ではないのでよくわかりません。ちゃんと読もうと思っているうちに雑事に取り紛れ、年が明けて3月には東日本大震災が起きたりもし、結局PCの胡軍さんフォルダにぶっ込んだまま、いつしかその存在を忘却してしまっていました。
今年の春先に「そうだ香港行こう」と唐突に思い立ち、そうして思い出したのです。そういや地図があったじゃないの、と。
プレスシート(らしき書類)には、孫文が香港に着いてから香港を去るまでの移動ルートと思しきものを記した地図が載っていました(メイキング映像の背景に使用されているので、ご記憶の方もいらっしゃるかも)。




右上に「CITY OF VICTORIA HONG KONG 1905」とありますが、孫文が香港を訪れたのは1906年のこと。埋め立てによって海岸線の形がだいぶん変わった香港島ですが、この地図では干諾道(Connaught Road)の向こうがすぐ海で、いくつかの桟橋が海へと突き出ています。
右下、人力車のイラストがあるところがスタート地点でしょうか。赤い矢印が上に向かって伸びています。
はたしてこれが本当に、映画のなかで1906年10月、孫文を護って義士団の面々が走り抜けたコースなのかどうかもわかりません。でもどうせ香港行ったら一度は上環をぶらぶらするんだから、だったらこの地図のとおりに歩いてみるのもおもしろいかも、と思いました。南北を逆にして、通りの名称を手がかりに現在の地図と突き合わせてみたところ、下の地図の破線のようなコースになりました。




まずは海港政府大樓(Harbour Building)の近くまで行き、歩道橋を使って干諾道中(Connaught Road Central)を越え、永和街(Wing Wo Street)に入ってみました。

wingwostreet.jpg
永和街をまっすぐ、徳輔道中(Des Voeux Road Central)を横断して更に進むと、皇后大道中(Queen’s Road Central)にぶつかります。映画のなかで、孫文を乗せた阿四(謝霆鋒)たちの曳く人力車が最初に清朝暗殺団の攻撃に曝される回廊のあるメイン・ストリートが、おそらくはこの皇后大道中です。
皇后大道中を左へ進み、進行方向右手の雲威街(Wyndham Street)に入ります。

queensroad.jpg

日本公開時のプログラムのプロダクションノートに掲載された略図には、その手前を左折したところに輔仁文社があるとあります。

IMG_7945.jpg

映画では、この輔仁文社で孫文は13省の代表たちと会合を持ち、孫文に扮した囮役の李重光(王柏傑)が入れ替わりに街へ出て清朝暗殺団をひきつけながら時間を稼ぐ、ということになっています。下の画像の左上に「輔仁文社」の看板が掲げられています。

輔仁文社2.jpg

しかしこちらによれば輔仁文社は百子里にあったという。その旧跡が残る百子里公園は荷李活道(Hollywood Road)と結志街(Gage Street)の間に位置し、略図の場所とは違う。

百子里公園.jpg

同様に中國日報の場所も、士丹利街(Stanley Street)にある陸羽茶室がその跡といわれているのに、略図では威霊頓街(Wellington Street)と徳己立街(Dagular Street)の交差するあたりになっています。どうなんでしょうかこのへんは。
ともかく皇后大道中から雲威街を上がり、威霊頓街に入ります。プレスシートの劉公子(黎明)のキャラクター紹介(上掲)に、

3:37pm
Wellington Street
Guarding the entrance of a street against the attack of several dozens assassins.


とあって、どうも劉公子がこの威霊頓街で清朝暗殺団を迎え撃ったかの如くです。てことはそこらへんに孫文のお母さんのおうちがあった筈ですが、劇中に出てくる地図がかなりアバウトなもんですから



ぜんぜん特定ができません。
そもそも映画では午前10時に囮の李重光を乗せた人力車が輔仁文社を出発して1時間持ちこたえるという設定なのに、劉公子が午後3時37分まで生きているのも変じゃないですか。



どうもなんだかこのプレスシートに書いてある時間や場所や人物の記録については、鵜呑みにしないほうがよいんじゃないか。
と思うとルートマップだってどこまであてになるかわからない。
そんなことは帰国して記事書く段になって気づいたことで、2017年6月16日の私は引き続き上環あたりをぶらぶらしています。

威霊頓街を歩いていくと、擺花街(Lyndhurst Terrace)と砵典乍街(Potting Street)が合流して三叉路になっているところに来ます。

lyndhurst.jpg
砵典乍街(上図右)を上り、荷李活道(Hollywood Road)に突き当たったら右折して、しばらく歩きますと、鴨巴甸街(Aberdeen Street)に出ます。

hollywood.jpg

鴨巴甸街を右折。
少し歩いて結志街(Gage Street)に入っていきます。

gage1.jpg
ちなみに阿四こと謝霆鋒/ニコラス・ツェーさん経営のクッキーショップ「鋒味 by Beyond Desert」が結志街に入る角んとこにあります(百子里公園の地図参照)。「え、こんなところにッ!?」と帰国してから歯噛みをしました。香港まで出掛けていって『孫文の義士団』ゆかりの地を巡ってるくせになんでここで阿四のてづくりクッキーをみやげに買わん!? 阿四じゃないですけど。まことこのあたりは盆暗のきわみでございます。

「鋒味 by Beyond Desert」に微塵も気づかぬまま、通りというよりも市場みたいな趣の結志街を歩いていくと、行く手に有名な茶餐廳・蘭芳園があります。お茶を飲んでいこうかなと思ったのですがクッソ混んでいたのでやめました。蘭芳園手前の吉士笠街(Gutzlaff Street)を左へ折れます。ぼんやりしてると通り過ぎてしまいそうな(ピンクのお花が目印)、ほんとにここ通れんのかぐらいの裏道感漂うストリート(下図左)を下っていくと、ふたたび威霊頓街に出ます。

welington.jpg

威霊頓街を右へと歩いていきますと、さっき通った擺花街と砵典乍街の合流点に出ます。上に載っけたストレスでまゆげが抜けた閻魔の閻ちゃんこと閻孝国のおそろしい画像には、

4:20pm
Lyndhurst Terrace
Leading suicide bombers to attack on Dr. Sun at “The Bloody Crossroads”.


とのキャプションがつけられています。のんきに行き交う観光客のみなさんは、ここがそんなにも陰惨な血まみれプレイスだとは知る由も無いのでした。
さてその「血の十字路」から砵典乍街を下ります。
映画のラストで、李重光を乗せた人力車が陳少白(梁家輝)の手から離れて転がり落ちる石畳の道。それがここです、たぶん。様々な映画のロケが行われてきた名所です。

pott.jpg

もちろん『孫文の義士団』はここでロケをしたわけじゃないのですが、さすがにこの場所に立ってみると心中いろいろとブチ上がります。幕末の大坂での新選組の足跡を辿っていて天満八軒家船着場にあったと思しき古い石段にたどりつき、すり減った石の表をみてああまちがいなく土方歳三山南敬助がここを踏みしめていったのだな、と思った時と同じぐらいブチ上がります。
人力車が石段を転がり落ちて横倒しになり、閻孝国がへし折った梶棒で幌越しに中の人をぐっさぐっさやったあげくに陳少白の銃弾に斃れるとこらへんが、たぶん砵典乍街が皇后大道中に突き当たる、このあたりじゃあないかしら(上図左下)。
わたしも閻ちゃんみたくうつぶせで倒れてみたい!
もう倒れちゃおっかな!
クッソ暑いし足が棒だから!
などという欲望と戦いながら、石段を何度も往復しました。
ストレスでまゆげが抜けたおそろしいおかおばっかりじゃあれですから、砵典乍街のセットを背景に佇むタキシードの胡軍さんも載せておきますね(載せたいから




そこからは皇后大道中を渡り、徳輔道中を越えて干諾道中へ。
その先のDouglas Pierで、赤で示されたルートは終わっています。
省代表13名との会合を終えた孫文がこのDouglas Pierから艀に乗って香港をあとにした、ということなのだとすれば、プロダクションノートの略図に書かれた輔仁文社の位置からはごく短い距離の移動で済み、(現在伝えられている跡地とは違っていても)まさに打って付けの場所だったということになりましょう。


映画のなかで阿四たちの曳く人力車は、ラストの石段を別にすればほとんど平地を走り抜けています。
実際に歩いてみれば勾配のきつい、ぐねぐねと複雑にからみあう、道幅の狭い、でこぼこした道を登ったり下ったりするコースでした。ここを車曳いて走るのはそうとう体力要るだろうなあと思いました。映画の季節は10月だけど私が歩いたのは湿度90%超の6月半ば、途中でなんかちょっと朦朧としたりもしました。
『孫文の義士団』日本公開から6年。
もっと綿密に映画のルートを検証し、孫中山ゆかりの名所旧跡をおりまぜながら踏破された方も、きっといらっしゃるのではないかしらと思います(孫中山記念館は、香港を発つ朝、空港に向かう前に訪ねました)。
いまさら感も多々ございますけれど、楽しいぶらり旅でした。
参考にした資料の出所と根拠がよくわからないので事実誤認もあるかも知れません。そのあたりはゆるくご容赦いただけますと幸いです。
| 13:22 | 電影感想文。 | comments(4) | - |
隠國の終瀬の山の、山の際に。──『黒衣の刺客/刺客聂隐娘』
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唐代の中国。ある日、13年前に女道士に預けられた隠娘が戻ってくる。美しく成長した彼女は完全な暗殺者に育て上げられていた。標的は、暴君の田季安。彼と隠娘は、幼き頃一緒になることを決められていた、かつての許婚であった。どうしても田季安に止めを刺せない隠娘は、遣唐使船が難破し鏡磨きをいて暮らす日本人盛宴に助けられながら、暗殺者としての自分に情愛があることに戸惑い、運命を自らに問い直す……。



2013年秋、東京中国映画週間で観た二作品について、主要人物をめぐる「三人」というかたちにこじつけた感想文を書きました。
2015年秋に公開された表題の『黒衣の刺客/刺客聂隐娘』と、そして東京フィルメックスで観た『最愛の子/亲爱的』という二作品も、自分が長年惹かれている、というかもはや取り憑かれているようなテーマにおいて、何処かで屹度つながっているのだな、と思えるものでした。
それは「子どもが消えて、数年を経たのちに帰ってくる」ということ。つまり。


かみかくし【神隠し】

人が突然行方不明になったとき、神や妖怪にさらわれたと解釈すること。
神隠し事件には、失踪したまま戻ってこない場合と、期間は長短さまざまであるが戻ってくる場合とがあり、後者の場合、神に連れられて異界を巡ったという不思議な体験談が語られることがある。神隠し信仰は、人さらい、事故死、失踪といった残酷な現実を隠蔽する機能をもっていた。

(小松和彦/日本歴史大事典)



『黒衣の刺客』のヒロイン聶隠娘はある理由を以て女道士、嘉信公主のもとに預けられたのであり、『最愛の子』の田鵬も天狗に拐かされて諸国漫遊していたのでは無く安徽省の農村で李紅琴の手によって育てられていたのですから、これらの物語は厳密な意味で「神隠し」とはいえないのかも知れません。でも、どちらにせよその子は、なにものかの手によって両親と引き離され、異界ともいうべき世界にしばらくのあいだ隠されていた。それゆえにこのふたつを神隠しの物語と呼んでも不都合は無いのじゃないか、という気がするのです。
(『最愛の子』については、2016年1月16日の劇場公開後にあらためて書いてみたいとおもっています。)

あたりまえのようにそこにいた無辜のものが前触れも無く姿を消し行き方知れずになる不思議。「行方不明」が「正体不明」になって戻ってくるおそろしさ。神隠しの物語が湛える蠱惑とは畢竟、そうしたことではないでしょうか。
かつて最愛の子であったかれと、かれを迎える人々とのあいだに横たわる、けっして埋められない空白。
それでもあたりまえのように営んでいかなければならないその先の日常。
そうしたことがどうも気にかかるのです。

五歳のころ、私は自分が両親のもとから「いなくなること」ばかりを考えていました。そのために、全財産(といってもおもちゃの指輪やキャラメルや「きいちのぬりえ」など)を詰め込んだハンドバッグをふたつ、常に携帯して暮らしていました。幸か不幸かいなくなること無く今日に至っております。当時はむろん「神隠し」などということは知らなかった。知らないまま、「此の世で無い何処かへ行ってしまって二度と戻らないわたし」という物語をこしらえて、うっとりしていたようでした。
かつてそういう五歳児だったから、『黒衣の刺客』という映画になにがしか感情を揺らされたのかも知れません。

『黒衣の刺客』のもとになった物語、裴鉶による「空を飛ぶ侠女──聶隠娘」(『唐宋伝奇集(下)』/岩波文庫)によれば、聶隠娘とは、唐の貞元(785ー804年)のころ、魏博節度使の武官であった聶鋒の娘であり、行きずりの乞食尼に見込まれて行方知れずになった少女。「隠娘」というのは文字どおり、「世を捨てた娘」「人に見られてはならない娘」を意味する通り名なのでしょう。裴鉶の物語においては聶鋒の娘の本当の名は明らかにされませんが、維基百科の「刺客聶隱娘」の項によれば彼女の名は「聶窈」というそうです。「窈」は「ひそか。かすか。奥深くてかすかにしか見えないさま」という意味で、どこか「隠」に通ずる名といえます。姓の「聶」そのものが「ことばを口中に含んで小さな声で話す。ひそひそとささやく」ことをあらわす字であり、「窈」という名は「聶」との響き合いから付けられたものなのかもしれません。
五年ののち。ふたたび現れた乞食尼は「すっかり仕込みました。お引きとりください」と聶鋒のもとに隠娘を送りとどけ、消え去ります。なにを「仕込みました」かといえば人殺しのわざです。「いつも娘を想って、向いあって涙を流すばかりであった」聶鋒とその妻は、隠娘が戻った当初こそ喜んだものの、暗殺に明け暮れる娘をみるうちすこしずつこれを怖れるようになり、揚げ句「あまり可愛がらなくなった」といいます。
隠娘は門前を通りがかった鏡磨きの若者を見初めて夫とし、聶鋒の死後は魏博節度使の刺客となりますが、陳許節度使・劉昌裔の暗殺を命じられた際に劉昌裔の明敏なことに感じ入り、それからはかれのために働くようになります。
『黒衣の刺客』には劉昌裔は登場せず、聶隠娘(舒淇)が命を狙うのは当代の魏博節度使でありかつての許婚であった田季安(張震)です。ふたりの縁談は朝廷と魏博との争いのなかで破談となり、隠娘は田季安の正妻、元氏(周韻)の実家から命を狙われたために、田季安の養母嘉誠公主のふたごの姉、嘉信公主(許芳宜)に託され、そしてその身を「隠された」──ということになっています。

『藍宇』という映画、或いは『画魂』というドラマにおいては、其処此処に置かれた鏡をとおして登場人物たちの虚と実、過去と現在、予見する未来といったものが映し出されていましたが、『黒衣の刺客』においても鏡を挟んで向き合うかのような相似の像が、意図的に配置されているように思いました。隠娘の夫となる若者が「鏡磨き」を生業にしていることに関係づけているのかも知れません。
たとえば嘉誠公主と嘉信公主を許芳宜が二役で演じていますし、隠娘の伯父田興(雷鎮語)を狙う刺客精精兒と元氏をどちらも周韻が演じています。原作の精精兒は劉昌裔の命を狙う刺客として登場し隠娘に斃されますが、映画の精精兒は元氏のもうひとつの姿という設定。数合の撃ち合いの末に精精兒の黄金の仮面を斬り落とした隠娘は、仮面に隠された精精兒の正体が元氏であると知ります。田季安そのひとが「鏡」となって、かつての許婚隠娘と隠娘のかわりに娶った元氏がともに凄腕の刺客として生き、刃を交わすさまを映し出す──侯孝賢監督がそういうことまで意図されていたかどうかは存じませんが、個人的にひどく痺れる仕掛けです。嘉誠公主と嘉信公主の姉妹も田季安を挟んでその養母と暗殺者という生死の対称を描いていますし、元氏と隠娘はまた、田季安の愛妾瑚姫(謝欣穎)を呪殺せんとするものと呪いを解いて彼女を救うものとしても対立している。事ほど左様にじつは田季安というひとこそが、『黒衣の刺客』という物語を動かしているのかも知れません。「自立していて、不屈で、孤独」(監督談)な女たちの中心に居ながら為す術も無く「美貌の暴君」をやっているだけの田季安。公式サイトやパンフレットのあらすじで「暴君」と書かれながらその暴君たる所以が映画ではまったく描かれない田季安。いやもしかして描かれていたのかも知れませんが、そういうことよりも宴会で太鼓を叩いてくるくる回っていたお姿ばかりが懐かしく思い出されます。演者張震自身が「宮廷のダンスの場面は、太鼓の演奏もあったので、約1ヶ月間練習しました。この太鼓のメロディが非常に深く印象に残っています」と語っているので私の印象もあながち間違っちゃいなかった、と勝手に意を強くしております。

『黒衣の刺客』という映画は2015年のベストワンに推されるほど激賞されるいっぽうで、「クソつまらん」「なにがなんだかわかりません」「退屈」「寝たわ」「監督の自己満映画」「監督の自慰映画」といった悪評も多く、所謂観る人を選ぶ映画ということになるのでしょう。官能には個人差がありますから、すべての観客がひとつの映画を観て、等しくなにがしかの感動をおぼえる筈も無いのです。だからといって、「すべての観客が等しくなにがしかの感動をおぼえるものがすなわちエンターテインメントなのだからこんなのエンターテインメントじゃ無いんだ」という論には首肯致しかねますが。私は神社仏閣巡りがすきなものですから、自分もおまいりしたあのお寺この神社がこんなにも美しくフィルムに収められている、というだけで只管うっとりでしたし、上述のような仕掛け(じゃ無いかも知れないけど)を読んでいくのが愉しくって、つまり「entertainment=愉しませるもの」という意味でこの映画は自分にとっては十二分にエンターテインメントたりえたし、そしてまた、「此の世で無い何処かへ行ってしまって二度と戻らないわたし」にあこがれていた女の子が成長すれば、

DESPERATELY CHASING THE DRAGON ──the black hole@室生──

この記事に書いたようなことを嬉々としてしでかし、「もう金輪際森から出たくなーい」とかぬかす人間になるのだなあということも、消えない烙印のような甘苦い痛みを以て、思い知った気がします。

聶隠娘という女の子は全き無辜の存在だった。彼女の両親は娘を凄腕の人殺しになどしたくはなかったし、彼女自身も自分が人殺しで暮らしを立てる身になろうなどとは思ってもみなかった筈です。ちいさきものが、何処かの誰かの事情によって自由を奪われ、何処かの誰かのすきなように、そのありようを変えられてしまう。「空を飛ぶ侠女──聶隠娘」にあるように、娘の帰りを待ちわびていた親ですら、一種のばけものになって戻ってきた娘をもう愛せない。『黒衣の刺客』にあるように、母が毎年娘の成長に合わせて仕立てていた豪奢な衣装がもはや彼女には似合わない。といいますか、あの場面で舒淇が纏う衣装が舒淇をまったく美しく見せてくれていない。だってなにしろ舒淇なんだから如何様にも美しく装わせることはできたと思うのに、敢えてあんなに野暮ったいかんじに仕上げたということ、それがつまり聶隠娘そのひとの居心地の悪さを明らかにしているのかなと思ったりもしました。元氏や瑚姫が白粉や紅をたっぷり使い花鈿をほどこした艶やかな化粧をしているのにひきかえ聶隠娘がほぼ素顔というのも、聶隠娘がいまだ男を知らない、浄らかな身であるからなのでしょう(原作では夫を持ちますが)。清浄であるがゆえにその殺人技も尋常ならざる域に及んでいるのかも知れません。しかし師匠の嘉信公主が刺客としてあってはならないと指摘した聶隠娘の「情」の部分、誰かを愛すること(つまり、浄らかでなくなること)によって彼女がみずからすすんでその「情」に振り切ったとき、その殺人技はよりいっそう深化するだろうという気もします。それが彼女にとって幸福なことかどうかはわからないけれど。

いかにして帰つて来たかと問へば、人々に逢いたかりしゆゑ帰りしなり。さらばまた行かんとて、ふたたび跡を留めず行き失せたり。

(『遠野物語』/角川文庫)

行方不明となり、正体不明となって、ふたたび此の世に戻ってきた子。
黒い衣を纏い、帷や木立、夜闇のつくりだす影のなかに慎ましく佇む彼女。
空の青、日の光、吹き渡る風、葉叢のざわめき、鳥啼く声。それらを従えた聶隠娘の孤高と寂寞。
脳のうしろに蔵われた匕首のように、いつまでも忘れられません。
傷の手当てをしてくれた鏡磨きの青年(妻夫木聡)を新羅に送るために聶隠娘が村に戻ったとき、村の老人が言います。あの娘は約束を守ったよ、と。
原作では聶隠娘の夫になる青年だけれど、映画ではふたりのあいだに「恋」と呼べるほどのエピソードは無い。屹度戻ると約束するシーンすら無い。聶隠娘というなみはずれた技と力の持ち主が、すでに無辜では無く忌まれ疎まれる存在となった彼女が、恐らくは義侠ゆえに、日本からきた青年との約束を律儀に守る。そのささやかな願いと情熱に落涙しました。冬日の照らす枯野を青年と老人、そして彼らを護るように付き従う黒衣の背中がちいさく遠くなり、そしてすっかり見えなくなるまで、涙はずっと、流れつづけました。


《刺客聶隱娘》片尾配樂



本作の撮影は日本の寺社に於いてもおこなわれたそうですが、そのうちのひとつ、聶隠娘の回想に登場する嘉誠公主の場面が撮られたのが牡丹で名高い奈良県桜井市の長谷寺だそうです。
「長谷(はせ)」は「初瀬/泊瀬(はつせ)」とも記し、谷川健一氏によればその本来の意は「果つ瀬」「終瀬(はてせ)」ではなかったろうか、と。
「隠/隠國(こもりく)の」は、山に囲まれた地形であるところから「泊瀬」にかかることばで、「『はつ』に身が果つの意をふくませて、死者を葬る場所の意をこめている例もある」のだそうです。人麻呂の歌にもあるように泊瀬は火葬の地、葬送の地であることから黄泉の国に通ずる地ともとらえられていたようで、嘉誠公主という亡き女性が姿をあらわす場面がそういう場所で撮影されたというのもなかなか興味深いことでした。


| 15:47 | 電影感想文。 | comments(2) | trackbacks(0) |
赤ッ毛のあの仔。──『ポリス・ストーリー/レジェンド』




ベテラン刑事ジョン(ジャッキー・チェン)は、ひとり娘のミャオ(ジン・ティエン)に会うため、歓楽街の中心にある全面をコンクリートに覆われた巨大なナイトクラブ“ウー・バー”にやってきた。仕事に追われ半年ぶりに娘と顔を合わせたジョンは、娘との慣れない時間を過ごしていたところ、突然背後から何者かに襲撃されてしまう。気がつくと、クラブの出入り口は頑丈に閉鎖され、ジョン親子を含む十数人の客は無数の爆弾が仕掛けられた建物内に閉じ込められていた―。建物を包囲した警察も全く手を出せない中、事件の首謀者であるクラブの経営者ウー(リウ・イエ)は、警察にある取引を求める。この籠城事件の裏には、ウーが長年にわたって綿密に仕組んだ、ジョンの刑事人生の過去にも関わる恐るべき復讐計画が隠されていた…。

『ポリス・ストーリー/レジェンド』という作品においては、成龍(ジャッキー・チェン)が年頃の娘をもつ父親をはじめて演じたということがひとつのトピックだったように思います。妻の不慮の死によって始まった鐘文(成龍)と娘・苗苗(景甜)の不和。誤解と齟齬を重ねたあげく、ひとつの事件を介して和解へと至る「父と娘」の物語。そう思って観て、間違いじゃありません。これは成龍の映画であり成龍のファンのための映画ですから、監督が「父と娘」の物語の陰に確信的にしのばせたもうひとつの物語──鐘文と武江(劉燁)による「父と息子」の物語──を無視できないやつなんか屹度私だけだ私だけで良いんだと思ってます。

『ポリス・ストーリー/レジェンド』の数年前に丁晟監督が劉燁を主役に起用して撮った『硬漢/アンダードッグ』という映画があります(→感想文)。
そこで劉燁は、水難事故で脳に障害を負った退役軍人、老三を演じました。「老三」とは、三人きょうだいの三番目を意味する通称です。
老三の使命は悪──法に背き、人を傷つけ、社会の秩序を乱すもの──を滅ぼすこと。だれに頼まれたわけでも無い、老三がもって任じています。すべての人間を「いいひと(=好人)」と「わるいやつ(=坏人)」に仕分け、わるいやつは徹底的にやっつける。はればれと澄みわたった眸をして、まっすぐ頭をあげて、己は天地に隠れも無き「いいひと」であると、老三は一点の曇りも無く信じているのです。
無垢が暴走して狂気に振れかねないほどの「善」を体現した役者が、『ポリス・ストーリー/レジェンド』では一転して善に滅ぼされるわかりやすい「悪」として立っています。『硬漢』『硬漢2』で共闘した劉燁を信頼するがゆえの監督のキャスティングでしょうし、そしてまた、老三と武江をひとりの役者に演じさせてみるというあたりに監督のたくらみめいたものも感じます。『ポリス・ストーリー/レジェンド』が「成龍の」映画であることは間違い無いのですが、同時にそれは、『硬漢』を撮った監督が綴る物語でもある。期せずしてというよりも意図的に『硬漢』をなぞっているとしか思えないようなところが、『ポリス・ストーリー/レジェンド』にはしばしば見受けられるのです。人質を取って立て籠もるという映画内での犯罪のありよう。廃工場を改装したWu Barの、かつて老三が乗り組んでいた潜水艦を思わせるつくり。老三は自室の壁いちめんに家族の写真や好きなスターの切り抜きを貼るのが好きなんですが(『硬漢2』ではしっかり成龍のポスターが貼られているという念の入りよう)、武江のオフィスの壁にもまたそうしたスクラップ群が見られます。さらに、一見まったく異なる老三と武江に、監督はおなじひとつのしるしを与えています。それは彼らの父が不在であるということです。
『硬漢』には老三の母や姉、兄(らしき人物)は登場しますが、三人きょうだいの父たるひとの影が無いのです。老三の自室の壁に貼られた写真にそれらしき姿がちらりとみとめられるものの、物語のなかでは父についても、そして父の不在の理由も、いっさい語られない。『ポリス・ストーリー/レジェンド』においては、武江の父と彼のあいだに起きたことは語られるけれど、やはり父親そのひとは(故人ということもあってか)最後までその姿を見せません。

いっぽうで、本作の売りでもあるような「父と娘」の物語──鐘文と苗苗の関係は序盤であまりにもあっさりと(「父さんごめんなさい父さんに心配してほしくて悪ぶってみたの」)修復されてしまいます。ちょっと失礼なことを申しますが「成龍が年頃の娘をもつ父親をはじめて演じる」というひとつのチャレンジは、ある意味そのトピックだけで達成されちゃってまあそれでいっか、みたいな印象です。関係修復した父と娘の愛情絡みのあれこれは映画の終わりまで続くけれど、語り手がほんとうに語りたい物語はそっちじゃないんじゃないかしら、とかいう気がするのです。病み呆けた私の気の迷いということにしても良いのですけど。

閉鎖されたWu Barから暗い穴を抜けてたどりつく地下鉄へ。
「父と娘」の物語の数倍の時間を割いて語られるのは「父と息子」の物語ではないでしょうか。
妻や娘をかえりみず仕事三昧だった父・鐘文と、母や妹と引き裂かれ亡き父の負債をすべて背負わなければならなかった子・武江による──自らを棄てた父へ、棄てられた子が仕掛ける、これはひとつの復讐劇なのではないでしょうか。

もうすぐ逢えると思った矢先に不慮の事故で命を奪われた妹、小薇(古力娜扎)。その死の謎を究明しその死に関わった連中を悉く糾弾し復讐する、というのが本作で武江に与えられた物語。小薇を死に向かわせたのはほかならぬ自分であるということを知った彼は、慙愧のあまり自らの命を絶とうとまで考えます。そこまで強い、近親相姦すら匂わせる妹への想いが、しかし武江の言動からはさほど伝わってきません。脚本の描き込みが足りないというよりも、武江が一途に想っているのは妹じゃなくてじつは「父」だから、だと思います。
亡き父。
その身代わりでもあるかのようにあらわれたもうひとりの「父」=鐘文。
妹を見殺しにした罰すべき相手ということをはるかに超えて、武江は鐘文に執着しています。家族を壊した父。母や妹を棄てた父。幼い自分に苦渋を舐めさせ、彼岸へと去った父。最早ぶつけようの無い憎悪や怨嗟を、武江は鐘文ひとりにひきうけさせているかのようです。椅子に拘束された鐘文をいたぶるとき。檻のなかで闘い傷つく鐘文を嘲笑しながら高揚していくさま。こめかみに銃を突きつける鐘文の絶望を眺めやる愛憎塗れの喜悦。鐘文と対峙するときの武江にきまってちらつく、ごくわずかな甘えのようなもの。あるいは労りのようなもの。わざと悪戯をして上目遣いに父の反応を窺う子どもみたいな顔。それぞれほんの一瞬のことなのですが、劉燁はたしかにそういう芝居をしています。書かれていないシナリオの行間を、彼はそういうふうに解釈して演じていたのではないかと思うのです。

2009年10月、『山の郵便配達』の感想文でこんなことを書きました。

『王妃の紋章』もそうでしたけど、この映画(=『山の郵便配達』)でもまた「父と息子」という関係が、なにやらただならない域にまで至っている。
その点については掘れば掘るだけ「泣けるいい話」から乖離していきそうだし、この映画を「泣けるいい話」という美しさだけで完結したいかたには、あまり気持ちの良いことじゃ無いかも知れない。
『山の郵便配達』と同様に「父と息子」のこまやかな関係を描く『天上の恋人』にもやはりそのにおいは濃厚にあった。『藍宇』でも、陳捍東はいわゆる「念者」で、大雑把にいえば藍宇にとって擬似的な父でもあったわけだし。それって結局、「息子が劉燁だから」ってことなんだろうか。劉燁というひとの佇まいそのものが、年長者の庇護や愛玩を(場合によっては嗜虐を)誘いだす点でおそろしく巧緻というか、そういう天然の資質をそもそも備えてらっしゃるというか。そりゃ勿論演技という点に於いて、ですけれど。

「年長者の庇護や愛玩を(場合によっては嗜虐を)誘いだす点でおそろしく巧緻」だった劉燁が、そうしたものとは一線を画して、成龍という巨大な「父」と向き合う「息子」を演じる。妻と娘を棄て、息子ひとりの手をひいて異国へ渡った男の姿が、武江がみつめる鐘文の向こうに見えてくるような。或いは、武江そのひとの姿に重なるような。どれほど過酷な目に遭わされようと息子は屹度父を愛していたのでしょうし、父もまた息子を愛した筈。人生の終わりへとむかう道行の相手に選び取ったのは、妻でも無く娘でも無く、彼の息子、武江だったのですから。
映画の終盤で武江が鐘文に叩きつける「再見吧!」という台詞、いまはもういない父への、あれは渾身の訣別だったと思います。ただひとことにこめた愛と怨嗟でもうひとりの父=鐘文を貫いた、あのときの劉燁のあの声音が、いまもわすれられません。



ジャッキーさんメインのレヴューはジャッキー迷の方たちがわんさか書いてらっしゃると思われますので、毎度のこと乍ら劉燁さん「だけ」に特化した感想文ですみません。劉燁が出てるのに映画は惜しいとか、劉燁がこんな映画に出るのは勿体無いといったお声を(ある意味それも劉燁さんを買ってくださっていると思うのですが)耳にしたので、いやいや惜しくも無いし勿体無くもなくって劉燁さんがここに居るのはまったくの必然なんですよ、ということを書きたくて書きました。そして毎度のこと乍らタイトルと内容は関係があるようで無いようで恐縮です。ここんとこ萩尾望都先生の『赤ッ毛のいとこ』を読み返していたもんですからつい。そんな、赤ッ毛のこいぬのかわいいこいぬっぷりも想定外にたっぷり拝める映像特典付きBlu-ray&DVDが、ただいま絶賛発売中です。初回プレス分限定封入特典の特製ブックレット(テキストは劇場版パンフレットの再録でした)の表3には、冒頭に掲げたジャッキーさんとのツーショット写真が載っていて嬉しいです。リリース告知以来、劉燁さんの影も無いんじゃねえかハブられてんじゃねえかと故無き被害妄想に苛まれていたこの半年でしたが、映像特典の劉燁さんのインタヴューはこれまで観たことの無いものでしたし、監督のインタヴューでも彼についてはそれなりに言及されていて、被害妄想も報われる(笑)充実の内容でございました。



| 11:10 | 電影感想文。 | comments(4) | - |
2014東京中国映画週間。──『無人区』
10月22日(水)
●無人区/No Man's Land



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潘肖は豊富な法律知識と巧みな法廷テクニックを持つ、強欲な敏腕弁護士。彼は北西部での裁判へ赴き、国の保護鳥類であるファルコンを違法に狩り、また警察官殺害の罪に問われていた違法狩猟集団のボス・老大を無罪放免にする。老大は10日後に代金を支払うことを約束し、潘肖は担保として赤のセダンを受け取る。広漠とした北西部の原野から都会へ、車での長く危険な旅が始まる。道中はトラブル続きで、トラクターに乗った男たちとケンカになり負傷し車を破損したり、ヒッチハイクの青年をうっかり轢き飛ばしてしまうなど散々な目に合う。潘肖はやっとのことで違法営業のガソリンスタンドに辿り着き、ここで働かされている一人の女と出会う。違法狩猟団の老大も後を追ってきて、彼の旅は更なる危険に脅かされるが……。


终极版预告片→

同日、この映画の前に『ブラザーフッド/绣春刀』を観たわけなんですが、正直こっちがあまりにも自分好みの映画過ぎたためにそれなりにおもしろかった『ブラザーフッド』の印象がすっとんでしまいまして。
2010年に公開される筈が政府の審査に通らずお蔵入り、3年経った2013年12月に漸く公開されたという因果な作品です。
導演は『疯狂的石头(クレイジー・ストーン〜翡翠狂騒曲〜)』『黄金大劫案』の寧浩。
主演が『人再囧途之泰囧(ロスト・イン・タイ)』導演兼主演の徐峥。黄渤。管虎導演の『杀生』で黄渤と共演した余男。
中国映画についてはほぼど素人ですが、乏しい知識と経験のなかでも「すき」といえるひとたち揃い踏みってかんじで、観るのをとても愉しみにしていました。そして、もうひとりの主演が多布杰。陸川導演の『ココシリ/可可西里』で密猟者を取り締まるパトロール隊の隊長を演じて台湾金馬奨最優秀主演男優賞にノミネートされた役者さんです。こちらでは打って変わってハヤブサ密猟のためなら人殺しなど屁ともおもわぬ密猟集団のボス老大を、静謐に酷薄に演じています。

600キロ続く「無人区」を舞台に展開するロードムービーでありウエスタンもどきでもあるような物語は、そして物語のなかの人物たちは、この老大という怪物に隈無く支配されています。
はなもちならない拝金エリート弁護士の潘肖が、彼の常識も価値観もまるで通用しない老大とかかわり、逆運の釣瓶打ちの挙げ句にはからずも老大に追われる身となる。密猟したハヤブサが積まれているとも知らずに、弁護料の担保として老大のセダンをふんだくってしまったからです。果たして潘肖は老大から逃げおおせるのか、あるいは反撃に打って出るのか。そのあたりが本作のサスペンスの眼目です。

老大がハヤブサに執着するのは金のためで、そこにはハヤブサという生きものへの慈悲とか愛とか、そうしたものは微塵も無いのだとおもいます。
無い筈だのに、ハヤブサを生かし無事にとりもどすため「だけ」に力を尽くし、自分とハヤブサのあいだに立ち塞がるものどもを容赦無く殺戮していく老大のありさまに、その行為がどれほど悍しいものだとしても、澄みきった一途の、激しい恋情のようなものを感じてしまいました。
物語が進むうちに、その恋情が向かう対象はもはや「ハヤブサ」という鳥ですらなくなる。老大はみずからを疎外するものを悉く拉ぎ倒してゆく一個の巨大な「欲」の権化と成り果てます。「ほしい」というただそれだけの執着が、甘ったるい余情など嗤いとばす勢いで滾り耀いている。
我欲が凝り純化した老大の姿は単なる「悪役」には到底おさまらず、なにかこう、大鉈を振るって断罪を下す神のようにも見えたり。

黄渤さんが演じているのはその老大の手下、「杀手(殺し屋)」。
管虎導演の『厨子戏子痞子』の痞子のビジュアルはこれのパロディなんだろうか、カウボーイっぽい佇まいとか銃のかんじとか、よく似ています。出番はそんなに多くなくって、あら出たわとおもったらあっというまに潘肖の運転するセダンにはねとばされて「死体」になってしまいます。そのあと後半までずーっと「死体」をやっていますが、一転して「死体」じゃなくなった瞬間にみせる凄味の利いた芝居はやっぱりすごく良かった。

余男さんは潘肖が無人区で出会う「舞女(ダンサー)」。
『杀生』において、穢され貶められながらも無垢の未来を宿して生き抜く唖者の女を演じていて、それがなんとも素敵で私はこの女優さんに惚れてしまいました(あとで知りましたが彼女の誕生日も自分と同じ9月5日だったという)。本作でも同じように、監督の、或いは観客の希望とか良心みたいなものを託される役回り。騙されて嫁に来て、無人区のなかに閉じ込められて売春を強いられ、奴隷のように扱われる彼女は、捕らえられ自由を奪われて売られてゆくハヤブサにどこか似ているかも知れません。
ともに旅を続けるうちに潘肖は、自分が見失ってしまったなにがしかあかるく美しいものを彼女のなかに見出し、それをもう一度青い空に放つため、つまりは自分自身を救済するために、老大と対峙したのだとおもいます。

相通ずるところがまるで無いような潘肖と老大ですが、じつはコインの裏表のようにどこか離れ難いもの。
潘肖が善と秩序の世界へ戻ろうと足掻くほどにその力が反転し、澄みきった純な悪へと老大を向かわせる。
潘肖が老大を道連れに死出の旅路へ踏みだす終幕の展開は正直予想を裏切るものでしたが、同時に、やはり諸共に滅んでいくしか無かったふたりだったのだな、とも。宿命的に「ふたり」が好きなこの身としては、ちょっぴりあまずっぱい気持ちになったりもいたしました。


劉燁さん絡みのことをいいますと、無人区で潘肖に絡むトラックの運ちゃんが『小さな中国のお針子』の村長さんだったり、最後の場面にカメオで出てるバレエ教室の先生が、『天上の恋人』で王家寛が片想いしてた朱霊だったりしました。
朱霊こと陶虹さんは徐峥さんの奥様。『人再囧途之泰囧』にも徐峥さんの嫁役で出ています。『黄金大劫案』では満州映画界のトップ女優、そのじつ抗日グループ「救国会」のメンバーである芳蝶を演じていて、ものすげえいろっぽくてかっこよかったです。最近では9月からスタートした電視劇『紅色─The Red─』で張魯一さん、周一围さん、そしてがおだおさんこと高島真一さんと共演なさってます。気球に乗って飛んでっちゃった朱霊のその後がずっと気に懸かっていましたが、佳い女優さんになったんだなあ良かったなあとかあさってのほう向いてなんだか嬉しかったり(笑)。


さて寧浩導演、黄渤・徐峥ふたたびの主演作『心花路放』が9月30日に公開されました。11月頭時点で早くも11億元超えのヒット、ハリウッドリメイクの可能性も浮上、なんだそうです。『人再囧途之泰囧』みたいな、弥次喜多旅的ロードムービーのようなのですが、今回は王宝強のかわりに(笑)こいぬとか出しやがってますよ『心花路放』终极版预告片!!!→

ちょっとうすよごれた、寄る辺無いみなしご感満載の、可憐なひとみのしろこいぬ……。
そんなしろこいぬと黄渤さんが絡むという、じつに卑怯きわまりない映画です。
預告片だけでなみだぐんでしまうわし……。

今週金曜日に劇場公開される『西遊記 はじまりのはじまり』で孫悟空@黄渤さんの認知度がまんがいちにも(笑)ぐぐっと高まれば、『無人区』も『心花路放』も、あといまわしがいちばん観たい『亲爱的』も、日本で劇場公開される可能性がたかまるかも。たいがいそんなこと期待しても皮算用で終わるのが通例ですが。でも考えてみれば黄渤さん出演作って劉燁さん出演作より(とほほ)コンスタントに日本公開されているような気がしないでも無いので、存外、皮算用じゃ終わらないかも知れませんぞ!


| 15:53 | 電影感想文。 | comments(4) | - |
2014東京中国映画週間。──『ブラザーフッド/绣春刀』
10月22日(水)
●绣春刀/Brotherhood of Blades


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明朝末期の皇帝・崇禎が即位した後、権力を欲しいままにしていた宦官・魏忠賢が失脚し、それに伴い閹党一派は追われることとなる。そんな折、錦衣衛(明の禁衛軍の一つ)にその残党を捕える命令が下される。錦衣衛の盧剣星、沈煉、靳一川の3人は兄弟の契りを結び深い絆で結ばれた盟友。一番年上の盧剣星は出世を望み、二番目の沈煉は教坊司(宮廷音楽芸術を担う部署)の遊女・周妙彤を密かに慕っていた。そして一番年下の靳一川には誰にも言えない秘密があった。ある日、後宮の宦官・趙靖忠は彼ら3人に皇帝の命として都から逃亡しようとしている魏忠賢の暗殺を命じる。3人は魏忠賢の暗殺を成し遂げ、彼の首を持ち帰ることに成功。しかしこれは巨大な陰謀の始まりに過ぎなかった。3人の身に更なる危険が迫っていた……。


终极版预告片→


やっぱり私は劉詩詩がきらいなのだわ。
ということが本作を観てよぉくわかりました。

『宮廷女官若曦』というドラマは、八・九・十三・十四の皇子様ズは素敵だったけど、劉詩詩演ずるヒロイン若曦の思考と行動が苦痛でしか無く。バレエダンサー出身というわりにはどうにも立ち居が鈍臭いし、喜怒哀楽の表現も判で押したみたいだし、なにより綺麗でもかわいくも無えのに(あくまで主観ですから)綺麗でかわいいらしいっぽい役を演じている、その乖離っぷりと説得力の無さがつらかった。そんな劉詩詩が本作で演じているのは、沈煉(張震)が心に秘めた想い人、教坊司一の売れっ妓遊女・周妙彤。己が苦界に身を沈めるきっかけをつくった沈煉の愛に、ひっそりと憎でこたえる美貌で薄倖のヒロインという、とても複雑な役なのです。だが、そうした複雑な女の業を背負って立つだけの芝居の力が、中の人には如何ともし難く不足しているとおもわれました。辛気臭い顔で辛気臭い芝居すりゃ「不憫で可憐」が成り立つとおもわれてもこまります。吹き替えだった『若曦』とちがって地声で演じているんだけども、またこれが悪声と呼んでいっこうに差し支えない低音ガラガラ声だったのには腰が抜けました。声質としてはべつに嫌いじゃないけれど、少なくとも本作の役柄にはまったく合っておりませなんだ。あーもー劉詩詩の悪口ばっかになってしまってほんとうに溜飲が下がもとい申し訳ございません。『若曦』はだめだめだったけど、こっちはもしかしたら……と期待したぶん落胆が大きかったの。てな次第で劉詩詩はかえすがえすも残念のきわみですが、劉詩詩がでてないパートはおもしろかったですよ(酷


そうですよ。

武術の達人の美しき宦官・趙靖忠(聂远)とか。



靳一川(李東学)の秘密を握って彼を強請る(どっからどうみても一川と身体の関係があったとしかおもえぬ)かつての兄弟子・丁修(周一围)とか。



主役三兄弟にネットリ絡みまくる因果なステキキャラだっていらっしゃるんですもの、男ばかりのブロマンスに徹すればもっともっと素敵な映画になったとおもうんです。せっかくタイトルでbrotherhoodて謳ってるんですしね。

さて、本作は明朝に実在した「錦衣衛」をモチーフにしています。
錦衣衛とはこういうもの。

錦衣衛(きんいえい)は、明朝の秘密警察・軍事組織で、禁衛軍の1つ。
明朝の洪武15年(1382年)に、儀鸞司が再編・改称されたもので、侍衛上直軍の1つとして親軍指揮使司に属し、勲戚の都督の下に南北両鎮撫司・十四所を統轄して儀仗と宮禁守護が職務とされたが、実際には特務機関としてその側面が強くなり、北鎮撫司の処理する招獄が別称となった。東廠設置後は、その下部組織として兵刑両権を行使して恐怖政治を実現し、人々から恐れられた。
(fromウィキペディア)


国と時代はちがいますが、なんかどっかこう、新選組が彷彿しませんか。

映画では三兄弟のひとり靳一川が肺病を患っている設定で、治療に通う医者の娘とほんのり恋仲になる、というくだりが出てきます。なんだこれ「沖田総司の恋」のぱくりみたいなお話だなあと思って家に帰って調べてみたら、ほんとに司馬遼太郎の『新選組血風録』収録の一篇「沖田総司の恋」をもとにしていますと書いてあったのでひっくりかえりました(from百度百科)。
つまりなんだ、本作の主人公である三兄弟は、

盧剣星=近藤勇

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沈煉=土方歳三

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靳一川=沖田総司

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ってことみたいなんです。

そうおもえば、出世を果たすものののちに捕らえられ斬首されるという長兄・盧剣星(王千源)の顛末は、近藤勇の軌跡そのままを描くようだし。
血を吐きながら闘って死ぬ末っ子・靳一川は沖田総司だし。
そして、志なかばで斃れたふたりの義兄弟の仇を討つために独り戦いつづける沈煉に、幕末の京から鳥羽伏見、戊辰戦争を経て箱館・五稜郭まで、剣と共に生きて剣と共に死んだ新選組副長・土方歳三の姿が重なる。

わたくし17歳のころから土方歳三に惚れつづけて幾歳月の者なのですが、中華方面の明星さんならば無理は承知でこのひとに土方を演じさせたいものだのう、と脳内で白マフラーに洋式軍装とかこっそり着せてみて「うわなんだこれ死ぬほどにあうよ!!」なぞと密かにずきずきしていた張震が、土方そのひとでもあるような役を演じている。
『绣春刀/Brotherhood of Blades』とは、とても個人的な理由で、自分にとってはそういう映画でもあったのでした。

観ている最中は迂闊なことにそこまで考えが及びませんでしたが、つらつら惟るうちに、ああそういやあんなとこもそうだったよこんなとこもそうだったわ、といまになって涙に暮れておる始末。
日本で劇場公開叶った暁には、きっちり劇場で涙に暮れる予定です。
だいすきな司馬遼太郎の名作が、単行本刊行から50年経った時代に中国で、こういうかたちでひとつの転生を果たした。

そんなふうに観てみるのもありかなと、おもってます。

| 11:36 | 電影感想文。 | comments(4) | - |
2014東京中国映画週間。──『失恋の達人〜上手に愛を手放す方法/分手大師』
お馬に乗ったりお酒を呑んだり仕事に追いまくられたりで毎度わたわたしています。感想書かなきゃとおもいつつうっかり3週間も経ってしまいましたが。
「2014東京中国映画週間」、今年は3本観てきました。まずは初日に鑑賞したこちらの作品から。


10月19日(日)
●分手大師/The Breakup Guru


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嵐吹き荒れる無情の大都会を愛に彷徨う人々。輝く高層ビル群も一つ一つの窓を覗けば、今夜も男と女が愛のために泣き、叫び、争い、首を吊っている! 一人ぼっちなんて大した問題じゃない、恋愛こそが全ての煩悩の元凶なのだ。そして最大の難問、それは「別れること」。この世の馬鹿な男と怒れる女を救うため、“別れさせ屋”の梅遠貴は奮闘する。彼は76回の恋愛経験を持ち77回の別れの経験があり、男と女の全てを熟知している。あらゆるカップルの別れ、別居、離婚そして財産分与までサポートしてきた。彼が発明した「無痛縁切り法」は、無痛、麻酔不要、後遺症も無く再発もしない、別れに効く特効薬。これまで2000組の夫婦や恋人を別れさせ、永遠の愛が壊れる瞬間を、すれ違う愛の悲しみを目の当たりにしてきた。彼の完璧な「縁切り法」は人々にとって希望の光。依頼者は後を絶たず、その中には各界の大物も。ある日、彼がこの稼業から手を引こうと決意していた矢先、おかしな依頼が舞い込む。クライアントの男は葉小春という名の女と別れようとしていたが……。

19日は六本木で『ファイアー・レスキュー/救火英雄』を観ましょう。
などと言っておきながら、申し訳ございません、『失恋の達人〜上手に愛を手放す方法/分手大師』を取ってしまったわしでした。会場である品川プリンスシネマでmeiryさん、多謝。さん、チャオシュエさんにお逢いし、そして『藍宇』のファンブックを下さったNさんとも8ヵ月ぶりの再会。そのせつはほんとうにありがとうございました!

今年、本映画祭の作品が上映されるのは、「プレミアム館」というハコです。

ゆったりサイズ、プレミアムシートが特長の4スクリーン。前後のシート間隔が140cmあるため、足を伸ばしてゆっくりとご鑑賞いただけます。

という謳い文句のとおり非常に快適かつラグジュアリーなスペース。シネマート六本木さんがこんなかんじだったらどんだけ嬉しいのだがのう、とおもいつつふんぞり返っておりますと、兪白眉監督と女優の代楽楽さん(作中では妊婦さん役でカメオ出演。実際に妊娠されていたそうです)が舞台挨拶でご登壇されました。
るーちゃんこと陸川監督のおとうさん・陸天明氏は、本作鑑賞後、そのあまりのくだらなさお下劣さに「愕然」とか「唾棄」とか「悪心」といった言葉を使って微博で酷評なさったといいます。しかし観ればくだらなくもお下劣でもなかった。かわいくておもしろかったです。監督・主演の鄧超さんがひたすら素敵なのでした。

これ、でも、主演俳優が自分の嫌いな野郎だったらば、ひょっとしてるーちゃんぱぱみたいな感想を抱いてしまったかもわからない。

ほんの数作しか拝見していませんが、鄧超さんは才能がキラキラ発露しているようなかただなあ、と思います。演技力身体能力ビジュアルなにもかもこれでもかとチャーミング。私にとっては愉しいばかりの116分でした。
上にあらすじ引用してますがたいがい他愛も無い、でもおもしろうてやがて悲しき、な匂いのあるお話。奥様の孫儷ちゃんはじめカメオも豪華(呉京さんとか!)。みどころはなんつっても別れさせ屋・梅遠貴が別れさせる過程で繰り出す八面六臂のコスプレです。いろんなコスプレなさっていますが最強は女装です。美人なんです。くそかわいいんです。綺麗な殿方の女装大好物の向き(わしなど)にはたまらぬものがございました。しかもただ綺麗にお化粧してしな作っておすまししてんじゃない。綺麗な上に体張って笑いを取りに行く鄧超さん。役者でもミュージシャンでもそういうひとが大好きなんです。そんな因果者が食いつかずにおられようかいやおられない魅惑の動画がこれじゃ。


邓超 化身“向日葵”女神

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か わ い い の う。

劇中で梅遠貴がモデルと偽ってランウェイを歩くときのひまわり娘ちゃん。
たぶん、劇中ではカットされてるショットも含めてスタッフさんが編集して載っけた動画だそうです。meiryさんに教えていただいてから500回ぐらい再生しましたよ。自分が考える「かわいい」の凝縮がここにある、といっても過言じゃ無い。
鄧超さんは中戯出身、舞台劇もなさっていたかただから、客前で板に乗ったときの佇まいが腹据わっててかっこいいんです。こういうのをみちゃうと「ライヴ」でこのひとを観てみたい、という煩悩がつのります。
ちゃんとした(笑)终极版预告片はこちら→
この先、本作が日本で公開されるかどうかはわからないけど、公開されることを願っています。公開されなくともDVDはお取り寄せ決定です。


そんな鄧超さん主演の映画『四大名補』『四大名補2』が、11月8日(土)からシネマート六本木さんで『ドラゴン・フォー』という、びみょうに涙目な邦題で公開されます。
胡軍さんが仮面の男を演じる『ファイヤー・ストーム/風暴』も、同じく「2014秋の香港・中国エンターテイメント映画まつり」の一環で同日封切り詳細はこちら!→

さらに胡軍さんが貫禄ありすぎの新人香港消防士を演じる『ファイアー・レスキュー/救火英雄』も11月9日(日)まで絶賛上映中!
同じハコで同じ日に胡軍さん出演作を2作品も鑑賞できてしまうというゆめのような贅沢仕様。タイムスケジュール的に『風暴』→『四大名補』→『救火英雄』の三本立てを目論んでおります。ただいま雑誌校正仕事絶賛校了期だけどとりあえずうっちゃって六本木に奔るにきまっている!!
| 12:50 | 電影感想文。 | comments(2) | - |
暗恋。
こまめに情報を集めるのがただでさえ苦手なのに(めんどくさいから)、ましてや引っ越しというイベントにかまけていたここ半年、なにかと盆暗の極みでした。他人様からいろいろ教えていただくことが多くってほんとに恥ずかしいというか恐懼の至りというかもうれつに反省しています。こんな素敵映画のことも微博で教えていただくまで露知りませんでした。ばかばかばかやろう。


老板,我爱你!


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『東宮西宮』の張元監督が呂聿来とミュージシャン李泉を主役に据えて撮った30分弱のショートフィルム。『2014大师微电影』として出品された作品です。
魏子山(李泉)のお抱え運転手をしている胡坤(呂聿来。中国とタイのハーフという設定らしい)は同性愛者で、ボスに密かに恋い焦がれているんだけれど、「同性愛」と「身分差」というふたつの障壁を越えられず思い悩む──というお話。全編、ひとことの台詞も無いままに物語が進んでいきます。

『東宮西宮』と比べてはいけないのかも知れないけれど『東宮西宮』と同じ匂いを嗅いでしまうのは致し方無いでしょう。ていうか構造は同じ。『東宮西宮』の小史(胡軍)も本作の魏子山もある種の権威を疑いも無く身に纏う、人も無げに傲慢で美しい男たちで、どちらも(表面的には)同性愛を嫌悪しています。彼らに対峙する阿蘭(司汗)と胡坤は儚げで弱々しく、暴力や権力に虐げられて倒れ伏しながらも、愛という情熱をこめて相手を見あげる。

『無聲風鈴』でも『孔雀』でも『王的盛宴』でもそうでしたが、呂聿来くんは台詞を発しているときよりも無言でいるときのほうがはるかに雄弁です。劉燁みたいに強烈な眸の芝居をしてみせるわけでは無いんだけど、相手の加虐をそそるようなまなざしでじっとみつめてふっと視線をそらす刹那などめっぽういろっぽい。指も肩もほっそりしていて(しかし細身ながらもちゃんと筋肉質で)、うなじから背にかけて浮き出る椎骨というわたくしの大好物もきっちり備えておられます。
相手役の李泉さん(胡軍さんよりいっこ下の69年生まれ)がこれまたええ男っぷりで、おらうっとりしちゃったよ。中華芸能とくに音楽方面にはまったく暗いもんで存じ上げなくってすいませんでした。お歌もすてきなのね。

観終わって、日本でやるならこのふたりは誰がいいだろか、とか考えてしまいました。
ボスのほうは作詞作曲ができてお歌もうたえて楽器も弾けて芝居もできる男前、さしずめ福山雅治さんあたりでいかがしょうか。李泉さんとは同じ1969年生まれ。
呂聿来くんのほうはといえば、彼、童顔だけどじつはもう32歳で、日本で同年て誰なんだべと調べてみたら、藤原竜也とか櫻井翔とか相葉雅紀とか綾野剛とか向井理とか小栗旬とか、けっこうな皆さんが揃っていました。でも自分、ここはちょっと中村蒼くん(らぶー)にお願いしたいのです。身長ほぼ同じだし。ときどき、ほんの一瞬だけど劉燁さん(というか藍宇)に似てたりもするし中村蒼くん。



で、これまた他人様から教えていただいたのですが、同じく呂聿来くん主演の映画が先日、香港国際映画祭で上映されたそう。すでにヴェネツィア、トロント、ワルシャワといった国際映画祭にも出品されている、文晏(ヴィヴィアン・チュイ)監督の処女作『水印街(Trap Street)』。





無辜の青年がひょんなことからスパイの濡れ衣を着せられてしまう的な、『パープル・バタフライ』の司徒@劉燁さんが彷彿するお役のようなのですが詳細はよくわかりません。トレーラーを探してみたけど見つからず、代わりに映画から抜き出したと思しき2本のビデオクリップが公開されていました。







詳細はよくわかりませんが、とくに下のほうのクリップの不穏な雰囲気からするとやっぱり呂聿来くんはかわいそうなことになってしまうのではないだろか……。ああなんかもうものすげえ楽しみじゃないか! 日本でも今年の秋の映画祭なんかで観られたら嬉しいです。
| 11:23 | 電影感想文。 | comments(8) | - |
百佳中国内地电影。
先日某所で、

TimeOut评选百佳中国内地电影
(英国『TimeOut』誌が選ぶ中国映画百選)

というランキングを教えていただきました。
1位は鎮凱歌監督の『さらば、わが愛/覇王別姫』。
以下100位まで、さまざまな中国映画が妍を競っております。
中国映画はごくごく僅かしか観ちゃいない私なんですが、自分の好きなあの作品はあの導演は愛するあの役者さんはいずこに?とどきどきしながら眺めてみたりなんかしました。


【26位】

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クレイジー・ストーン〜翡翠狂騒曲〜/
疯狂的石头/Crazy Stone

●導演:寧浩
●視聴→


黄渤さん32歳のときの遅咲きブレイク作。日本語字幕で観ねばとおもいつつも未だ中文字幕でしか観ていなくてどうもごめんなさい。お話の細部はいまいちのみこめていなくても、やっぱり黄渤さんは佳いです。主演の郭濤さんは『青春愛人事件』で劉燁さんと共演、『建党偉業』ではみるからに図体のでかいシスターに化けた蒋介石(張震)に暗殺される陶成章を演っておられました。



【34位】

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孔雀 我が家の風景/Peacock
●導演:顧長衛
●公式サイト→
●視聴→


『王的盛宴』で秦王子嬰を演じた呂聿来さんの映画デビュー作。超マイペースな姉と知的障害者の兄になにかと翻弄されまくる気弱でやさしい男の子を、遣る瀬無くナイーヴなかんじで演じています(ナレーションも担当)。撮影当時は22歳くらいだった筈ですが、17歳の少年を演じてまったく違和感ございません。




肩もうなじも手足も、どこもかしこも折れそうにほっそりと儚げな風情。でもじつはしたたかに生活力高めな子。『無聲風鈴』のリッキー、勝ち札ぜんぶ握って笑って死んだ秦王子嬰にも、そのへんがちょっと通ずるような。このひとの持ち味ってものかもしれません。


【35位】

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ココシリ/可可西里/Kekexili
●導演:陸川



【43位】

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南京!南京!/City of Life and Death
●導演:陸川


陸川監督の作品はほかに『ミッシング・ガン/尋槍』(64位)も選ばれていますが、劉燁さん主演の『南京!南京!』がランクインしたことがとりわけ嬉しうございます。
と同時に、劇中でほんのわずか使用されているにすぎぬ日本の某流行歌の著作権問題がこじれたせいで日本公開が叶わなかった、ええええたかがそんな理由でそれっていじめじゃねえの!!!???という無情な現実が、心の底からくちおしうてたまらぬのでございます。





【61位】

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パープル・バタフライ/紫蝴蝶/Purple Butterfly
●導演:婁燁
●視聴→


『南京!南京!』と『藍宇』がお誘い合わせでランクインだったら最高ですがそうは問屋が卸しませぬ。ていうかこのランキングは「内地電影」という括りがあるので香港映画の『藍宇』は初手から対象外なのでした。『パープル・バタフライ』は映画としてはさほど好きではないんだけども、劉燁という役者が備える突き抜けた美しさの記録という点で『南京!南京!』と双璧かと思います。未来も希望も一瞬にして奪われ、被虐に塗れてもなお煌煌と放たれる残光。本作のヒロインは章子怡でもなけりゃ李冰冰でもない。司徒=劉燁です。





【76位】

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東宮西宮/East Palace, West Palace
●導演:張元
●視聴→


これって自分はだいすきだけども世間様的にはどうなんだ、と思ってました。世間様的にも結構な高評価なのだということがこのランキングでわかって嬉しい。若くて傲慢で、しなやかなからだを借り物の権威でがっちりと鎧い、その隙間からメンタルの弱さを甘い腐臭とともにちらちら小出しにしてくる胡軍さん(28歳)がなにしろ超絶すてきんぐです。なのに日本版がVHSしか出ておらず、それすらも既にレンタル困難というのがあまりにも勿体無さすぎます。もっともっとたくさんのひとに体感していただきたい作品。


【78位】

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戦場のレクイエム/集結号/Assembly
●導演:馮小剛


観た当時はあんまりよくわかっていませんでしたが、いまになってみれば張涵予主演、鄧超、廖凡、王宝強、胡軍共演という個人的に随喜の涙な面子でした。胡軍さんは特別出演という体で、主人公・谷子地(張涵予)の所属する第2師第139団の団長さん、劉澤水役でちょこっとだけお顔を見せています。血とか肉とか内臓とかがばかすかすっとぶ戦闘シーンには「うわー……」とかなってしまいますが、過酷な運命に翻弄されまくり、渋い声音と抑えにおさえた表情で耐えて耐えて耐えまくる谷子地の姿、演じる張涵予さんのお色気にほだされて、ラストまで愉しく鑑賞いたしました。


【84位】

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斗牛/Cow
●導演:管虎


第46回台湾金馬奨で5部門ノミネート、2部門(最優秀主演男優賞:黄渤、最優秀脚色賞:管虎)で受賞。
黄渤さんの映画いくつか観ましたがやっぱりこれがいちばんすきです。
世界から零れた人間が、世界を呪い世界から呪われ、それでもどうしても世界を愛することをやめられない、そのせつなさ。
戦争という暴力に蹂躙され、酸鼻の極みで身も心も傷つき汚れ、目交につねに「死」を望みつつ、ぎりぎりの崖っぷちでしたたかにもちこたえて笑っている、そのかっこよさ。
痺れます。黄渤さんにも、そして牛にも。

| 23:56 | 電影感想文。 | comments(11) | - |
聖三角。──『アメリカン・ドリーム・イン・チャイナ』+『ロスト・イン・タイ』@2013東京中国映画週間

『説文解字』に、「三は、天地人の道なり。」とあり、三は天地人の数として聖数とされる。また、『後漢書』に、「三は数の小終なり。」とあり、『史記』には、「数は、一に始まり、十に終り、三に成る。」とある。つまり、三は成数(まとまった数)とされ、三によってすべてを代表させるという意味がある。

(ウィキペディア「三筆」より)


今年の東京中国映画週間では、「三人」がテーマであるような2作品を観ました。
10月22日にはこちら。

『アメリカン・ドリーム・イン・チャイナ』(原題:中国合伙人)

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1980年代、情熱と夢を抱いた3人の青年が燕京大学で出会う。そこから彼らの30年に及ぶ夢と挫折、友情の物語が幕を開ける。代々アメリカ留学をしている名家の出身・孟暁駿(鄧超)はアメリカで成功することを夢見ている。ロマンティックで自由主義者の王暘(佟大為)は改革開放初期のパワー溢れる時代の中で青春を謳歌していた。大学受験に2度失敗した農村の青年・成冬青(黄暁明)は孟暁駿に憧れ勉学に励み彼女も出来て充実した学生生活を送っていた。そんな中、孟暁駿だけが渡米ビザの取得に成功し残りの二人は厳しい現実に失望する。


「三人」はひとりが抜けた瞬間にがらがらと崩れる、そういう危険も孕んでいます。ひとり抜けてもまだ「ふたり」いるから「ふたり」でやってきゃだいじょぶだよね、というもんじゃないです。「三」でなくなってしまえば「二」にも「一」にも戻れない。なにもかもいちどきにぜんぶだめになる。「関係」を描いていながら「関係」に対して露呈する個々人の尻腰の弱さを「絶望」とか「やさしさ」とか「無常」といったものに綺麗に掏り替えているようなお話が私は苦手で、儘にならない日常のリアルを儘にならないまま描くからこそリアル、なのかも知れませんがすくなくともそれは自分にとっての「物語」じゃない。「儘にならないものだわねえ」で終わりじゃなくて、儘にならぬ地平に立って、「そこからどうするか」を描くことが物語の使命だと思うし物語だけがもちえる飛距離だと思うんです。『アメリカン・ドリーム・イン・チャイナ』は「儘にならない」に果敢にタチムカウ、

傷ついても負けても壊れてもだめになりかけても死んでも絶対にもちこたえてやるぜ舐めんなよ。

という、「三人組」ならではの底力を描いた映画だったと思います。

成冬青は大学講師の職も失い落ち込んでいたが、王暘の助けもあり廃工場跡で英語教室を開校、成功の第一歩を歩み始める。アメリカで挫折し帰国した孟暁駿も加わり3人は力をあわせて教育業界での成功を収める。


そういう展開の、実話に基づくサクセスストーリーで、中国人と日本人の感覚の違い(たとえば権利や金銭に絡むあれやこれや)に戸惑ったりちょっと辟易する場面もあったけれど、中国人はそれだけ奥歯をぎりぎり噛み締めてここまでやってきたんだなと、メカラウロコな気持ちにもなりました。サクセスストーリーなので当然ハッピーエンドなわけですが、ハッピーエンドに持ち込むまでにはいろいろあって、その「いろいろあった」が甘く、苦く、せつない。前途洋々だった孟暁駿は美しい国・アメリカで辛酸を舐め尾羽打ち枯らして帰国する。孟暁駿にひたむきに憧憬をぶつける成冬青の、ちょっと鬱陶しいくらいのやさしさがそんな孟暁駿を追い詰め傷つける。他人事で無いくだりだった。孟暁駿と成冬青とのあやうい均衡のあいだで緩衝材のような役を以て任ずる王暘は飄飄とのんきな風貌の陰に繊細でこまやかな心情をにじませる。王暘ののほほんさに救われる場面が多かったからこそ、その王暘のめでたい結婚披露宴のあと、酒や料理の残骸が散らばるなかで三人が本音を曝して衝突してしまう場面がとりわけつらい。佟大為はこの役の演技で台湾金馬奨助演賞ノミニーだそうですがそれも納得でした。こういう友達がひとりいれば、自分なんかずいぶん楽になるんだろうなあという気がしました。


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主演三名はすべて大陸の役者で、「中華圏映画『香港スター頼み』は終わり、実力&ルックス備えた中国人俳優が台頭」という記事がちょっと前に出ていましたが、本作の場合は香港の導演+大陸の役者という組み合わせだったから良かったのかも。

本編にはぜんぜん関係ないですが入学試験に合格して田舎から出てきた成冬青が燕京大学の門を潜るところは『建党偉業』でヤング毛沢東(劉燁)が北京大学にやってきた場面にそっくりでした。黄暁明の絵に描いたようにイモイモしい青いイモジャー姿もイモジャーラヴァーズにはちょっとたまりません。しゃおしゃおラヴァーズにもいろんな意味でたまらないかもしれません。そしてこれまた本編にはぜんぜん関係ないが、アメリカに行ったことも無いのに訳知り顔でアメリカを語る大学教授に向かって孟暁駿が吐いた台詞が「您去过美国吗?」。孟暁駿が一瞬、黄色いダサダサシャツの男の子にみえましたとかもう言うを俟ちませんです(笑)。『藍宇』においても本作でも、「アメリカ」はひとつの国である以上の夢であり憧憬であり、そして解けない呪いです。それに縛られる苦しさ、そこから自由になるためのなりふりかまわぬ奮闘。傷ついても負けても壊れてもだめになりかけても死んでも絶対にもちこたえてやるぜ舐めんなよ。そういう気概ひとつを抱いて三人が「美しい国」へ逆襲に乗り込む大詰め。甘く苦くせつない「いろいろ」を経たからこその痛快、でした。


そして『アメリカン・ドリーム・イン・チャイナ』の二日前に観たのがこちら。

『ロスト・イン・タイ』(原題:人再囧途之泰囧)

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強力ガソリン添加剤「油覇」の開発に成功した徐朗(徐崢)は、タイに滞在する大株主の同意を取り付けて大儲けしようと、バンコクへ。一方、開発パートナーの高博(黄渤)も、別の企みから密かに徐朗の後を追っていた。偶然機内に居合わせた王宝(王宝強)も巻き添えに、3人の中国人の一触即発タイ珍道中が始まる!


ロードムービーって旅人が「ふたり」だと旅路の果てには破滅と死しか無いみたいな、ちょっと不穏なかんじになる。必ずしもそればっかりじゃないけれど、たとえば『道』(フェデリコ・フェリーニ)とか『スケアクロウ』(ジェリー・シャッツバーグ)とか『テルマ&ルイーズ』(リドリー・スコット)とか『トゥルー・ロマンス』(トニー・スコット)とか『デッドマン』(ジム・ジャームッシュ)とか、自分のすきな「ふたり」のロードムービーはわりとそっちに傾くようです。十返舎一九『東海道中膝栗毛』だってざっくりいえば50歳と30歳のゲイふたりの駆け落ち話ですし。でも旅人が「三人」になると、旅路の果ての景色はほんのりあかるくて、そこにうっかり希望なんかもよぎってしまう。これまた自分のだいすきな『赤ちゃん泥棒』(コーエン兄弟)とか『プリシラ』(ステファン・エリオット)とか、これは「ロードムービー」からは外れるかもだけど『サボテン・ブラザーズ』(ジョン・ランディス)とか。
「ふたり」だと互いしか見えなくて、みつめあったまま手に手をとって突っ走ってしまうけど、「三人」だと三辺が支えあってバランスがよくなる、みたいなことなんでしょうか。

『ロスト・イン・タイ』では徐朗と王宝に徐朗を追う高博が絡んでの三人旅。徐朗がタイへ向かう飛行機に乗ったあたりからベタすぎるギャグの釣瓶打ち、案に相違して(笑)日本語字幕もまずまずまともだったので(誤脱字少々あり)安心して笑っていられます。私らの前の列に中国人の親子連れが座ってて、上映始まってからも若いお母ちゃんふたりの私語がうるさかったんですが、途中から全員前のめりで爆笑してたんで、あんまり気にならなくなりました。
三人旅とはいえ実質は徐朗─王宝による「2」の比重が高いです。それだとよくある「笑って笑ってほろりと泣けるドタバタ珍道中」で終わるところを、高博がところどころで重石になってくれるおかげで「3」として安定しています。憎まれ役の高博を演じる黄渤さんは些か損な役回り。でもライバルでありかつては親友であった徐朗を情報端末駆使して精密に追いかけ追い詰めながら、彼への複雑な感情(憎悪とか執着とか寂寥とか)を絶妙に滲ませるこのエキセントリックな男は、黄渤さんが演じたからこそ愛すべきキャラクターになったんだと思います。管虎監督の『杀生』でも村いちばんの嫌われ者で、悪さの限りを尽くして最後の最後で泣かせやがってこんちくしょうみたいな役を彼は演じていますが、『杀生』に次ぐ公開作となる本作の高博もそれに通じる匂いがありました。徐朗と王宝はちいさな衝突をくりかえしつつも、そのたびにどんどん距離を縮めて親密になっていき、クライマックスで徐朗はついに高博の手を離し、王宝を選ぶ。高博はひとりタイに取り残される。踏んだり蹴ったりな顛末ですが、タイへの旅を通して高博もまた変わり、変わったことへのご褒美は彼にもちゃんと用意されている。そういうとこもいい。


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黄渤さんにくらべて最強の儲け役は王宝強。私このひとは劉徳華主演、葛優さん張涵予さんも共演の『イノセントワールド─天下無賊─』で名前を覚えました。人を疑うことを知らぬ、ナイーヴでちょっと足りない出稼ぎ青年役がかわゆくて、たいそう佳かった。本作でもやっぱり人を疑うことを知らない、ナイーヴでちょっと足りない葱餅職人青年を演じて、これまたすごくはまってます。「ナイーヴでちょっと足りない山出しの青年」というのが彼の定番になりすぎてるきらいもあるようです。かつての劉燁さんの得意技もまたそんなでしたが、「ナイーヴ」の突き抜け方のベクトルが劉燁と王宝強では随分ちがう。たとえば徐朗が胡軍さんで王宝が劉燁さんだったらどんなお話になったべかと性懲りも無くお約束の妄想をしてみましたがどうひっくりかえってもコメディにならん。悲劇になる。私が彼らを「ふたり」としてしか見られないせいもあるのですが、落語めいた三人旅じゃなくて旅路の果てには破滅と死しか無い近松の道行になっちゃう。ていうかそうしたい(笑)。おらやっぱり『真夜中の相棒』を胡軍さんと劉燁さんで観たいんでがす。ま、ひとくちに定番のナイーヴのといっても役者の個性でいろいろってことなんですね。王宝強はなにしろ身体能力高いひとだなと思って履歴をみたら少林寺で武術修行を積んだんだそうだ。先般、陳凱歌監督の新作『道士下山』の主演に決まりました。成龍、李連杰、甄子丹などが候補に挙がってた役です。すごいな王宝強。カンフースター志望だった彼の武術の腕を、これで漸くがっつり拝むことができそうです。あ、そうだ。離婚するしないですったもんだしてる徐朗の奥さんを演じてる女優さんにどうも見覚えが、と思ったら陶紅(タオ・ホン)さんでした。『天上の恋人』で王家寛(劉燁)が恋する朱霊を演ってた女優さんです。
| 16:00 | 電影感想文。 | comments(2) | - |
起风暴。
黄渤さん主演作『101回目のプロポーズ』、昨日が初日でした。おめでとうございます。太極拳の交流会に出場したので1回目の上映には行けなかったが、自分の出番が終わったその足で午後の回にかちこみました。ネットでは視聴していたものの、日本語字幕+でかいスクリーンというのはやっぱり良いもんです。黄渤さんざっとこのぐらいキラキラしとった@自分ビジョン(笑)。


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台風18号直撃でしたまちコメディ映画祭の『ロスト・イン・タイランド』参戦諦めてしょんぼり→本作の公開が迫ったころになって日本版エンディングテーマ“SAY YES”を歌っている某デュオ某メンバーの薬物スキャンダル暴露という釣瓶打ちに、どこまでストームブリンガーなんだ黄渤と正直気が気じゃありませんでした。けっきょくエンディングテーマを中国版の“立秋”に戻して事無きを得ました。考えてみたら“SAY YES”のインストは劇伴で頻繁に登場するし、エンディング直前のクライマックスシーンでも大音量でばかすか流れてお話を盛り上げています。その直後にエンドロールでまた同じ曲がばかすか流れたらくどかった。穏やかな“立秋”で締めて正解だった。怪我の功名ってやつかもしれません。しかしやはり残念は残念なので台湾ライヴバージョンを貼っておく。






何度も観てるしお話もわかりきってます。そういうことを忘れるくらい黄渤さんが佳い。劇場で観てあらためてそう感じました。浮世離れしたお人形さんのように美しく、お芝居もまたお人形さんの林志玲が「人形としての悲哀」みたいなものまでうっかり漂わせてしまったのも、黄渤さんの芝居に感ずるところが大きかったからじゃないでしょうか。奇しくも“SAY YES”の歌詞に《硝子ケースに並ばないように》というフレーズがある。そうか、硝子の箱に護られたお人形さんがみずから硝子をぶち破って(破片によって傷を負うことを怖れずに)外に出てゆくお話でもあったのかこれ、てなことにもいまさら気づいた。名のある映画祭に出品されるような映画じゃないし、プロットは至って単純だし、ひねりも無けりゃ気が利いてもいないです。ただ「良くなろう」という、「良くなろう」と思って、そこで立ち止まらずに行動する人間のお話。人が人と関わることで、それまで意識したことも無かった「自分」に気づくお話。自分の意思で何かを決めたことが一度も無かった、「人の好さ」という美名に隠れて、その実ただ流されるままだった男が、なけなしの勇気を振り絞った一歩を踏み出すお話。それだけです。それだけなのに、手練れの役者が演じることで、ものすごくはなもちならないあつくるしい迄の純情も「なんかちょっと、好いたらしいわ」と思わせる。ほんとにしみじみうまい、そして油断のならない役者、黄渤さん。


黄渤さんまつりツーデイズの2日目、猛烈台風27号が指呼の間にせまった本日夕刻は、2013東京・中国映画週間でこれを観てまいります。


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いいかおだ!(笑)。


どうも27号がきそうですということになった先週あたりから、またしてもストームブリンガーか黄渤と正直気が気じゃありませんでした。ただいまこちら横浜では雨がどしゃどしゃ降っていますが、どしゃどしゃ降ってるだけなので電車も止まんないと思うし。24日あたりにくるらしい27号のことを考えると憂鬱ですが(26号によって被災した皆様には衷心より御見舞い申し上げます)、嵐を以て嵐を制す。御本家ディープ・パープル聴きつつひと月前のリベンジは、きっちり果たさせていただきますぜ。




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