蛇果─hebiichigo─

是我有病。

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美麗的尸体・番外──陸剣雄。
四十九日が経った。



震災で元気になってる奴って、じつはいっぱいいるんだよな。
と、仕事先の社長さんが忌憚の無いことをいっていた。

自分はどうなのか。
元気でいようと思うってことはつまりあんまり元気じゃないってことなのか。
愉しいことはそこそこあっても、ああ愉しいと思うそばからだいなしになる。そういうことが決まって起きる。見渡せば世界はもっと地獄だからのほほんと萎えてもいられない。いまでも一日最低五回は泣く。身元不明の遺体を仮土葬するとき棺には釘を打たないのだと聞いて泣き、遺棄された挙げ句に薬殺される動物たちの末期を思って泣き、いまや世界中のきらわれものになりはてた原発のことを考えて泣き、時々刻々身の置き所が無いほど恥じいっている。一年前のいまごろがもう百年昔のようだ。一年前のいまごろってなにやってたんだっけ。とおもって遡行してみたら、劉燁の死に顔についてガチで書くという遊びをやっていたのだった。


ああそうか。
そうだったわ。

司徒からはじまって藍宇を以てめでたく終わったはずだったのに、終わったあとで『南京!南京!』なんて観る羽目になってしまったんだわ。







そのころ、やっぱりいまと同じように、身も心も萎えていた。
身も心も萎えているときに観るべき映画では無かったが、萎えに拍車かけて自浄するタイプなのでそれなりの効能はあった。
2011年3月11日後にはじめて再生した映像作品がこれというのも、だからたぶん、正しかったんだろうな。




(日本未公開かつ日本版ソフト未発売の作品につき、以下は自己責任でお入りください。)
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| 20:11 | 美麗的尸体。 | comments(2) | trackbacks(0) |
美麗的尸体──藍宇。
「5月10日」という日は、自分の人生に於いてはほとんどなんの意味も無いものだった。
毎年毎年、ただぼんやりとやってきては行き過ぎて、ぼんやりと忘れ去る一日、というようなものだった。


2009年の5月10日に、この世界に『藍宇』というものが存在するのだということを知って。
その更に一年後の今日、2010年5月10日は、
ここを始めて100本目にあたるエントリを、『藍宇』をテーマに書いたりしている。

数字に纏わる暗合の頻発はこと『藍宇』に関してはいっそ執拗なくらいだが、なぜそういうことになるのかといえば、自分がそれほど執拗く『藍宇』というものに執着しているからに外ならない。



昨年の8月が終わるころ、

そもそもどうして私は、『藍宇』に出逢ってしまったのだろうか。
それが胸に落ちるころには、私は『藍宇』を必要としなくなっているかもしれない。


そんなことを考えていた。


対象が有機であれ無機であれおよそ私は惚れっぽい人間で、そしてそれは裏を返せば非常に飽きっぽい人間だということでもある。
「惚れっちまったわ」と認識したその瞬間からもう「飽きる」へのカウントダウンが始まっている。
飽きることは悪では無いし、自分のなかではなにがどうして「飽きる」に至ったのかということはきちんと整合しているのだが、飽きられるほうが人間だったりするとあんたはつれないとか冷たいとか自分勝手だとか我が儘だなどと詰られる。

「いや、でも、自分の気持ちはこれこれこういうふうにここで整合してるんですけど」

とか説明するのも野暮だし。実質飽きているのに「あなたに夢中なの」みたいなふりをしつづけるほうが余程誠意が無い、であれば繋いだ手を離して自由になったほうがあなたにとっても御為ってものでしょ──とか言ってるがそんなものはただの詭弁だ。


藍宇と同じくらいの年齢のとき、藍宇と同じくらいのレベルの失恋をした。つまりはじめて寝た男に飽きられて棄てられた。だいすきな相手に「飽きられて棄てられる」というその怖ろしさに骨身を削られ、それはいまだに治癒しない傷となって残り、既に実体など無いその怖ろしさを闇雲に怖れる余り、飽きられる前に「飽きてしまう」をくりかえす人間になっていまに至る。


藍宇はまるで麻薬だった。手に入らないときは死ぬほどそれを想い、手に入れると足が地につかないような快楽にはまる。だが目覚めたとき、待っているのは無限の苦痛なのだ。

(『北京故事 藍宇』)



対象が有機であれ無機であれ。


たぶんそれは「飽きる」のでは無い。
「私が『藍宇』を必要としなくなる」のでは無い。
『藍宇』が私を必要としなくなるのだろう。
『藍宇』が私を棄てて、何処かへ行ってしまうのだろう。
そういうときがきっとくる。いつかはわからないけれど。


藍宇を演じた役者の「死に顔」ばかりをあつめて左見右見するという多分に罰当たりな行為は、いずれ『藍宇』に棄てられる、そのときのための準備のようなものだったのかも知れない。




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| 23:54 | 美麗的尸体。 | comments(9) | trackbacks(0) |
美麗的尸体──鬼狼。
このひとをここにカテゴライズしても良いものかしらとちょっと迷いました。
祥様みたいに超絶美人てわけじゃ無いです。むしろホラーだ(ごめん)。そもそも「死に顔」って呼べるのかあれは。とかなんとか逡巡があったです。しかしこの萌えにはとうてい勝てません。前にも書きましたが藍宇の次にこのひとがすき。『PROMISE 無極』(2005年)の鬼狼。





大きい声では言えませんがじつは(SS書きてえ…)とこっそりアツく思ってるくらい鬼狼がすきで!!!(←大きい声)


そこまですきなくせに、鬼狼についてはこれまでほとんど触れてきていません。「ほとんど」ておまえ、映画の感想文であれだけ垂れ流してまだ足りねえかとかお思いなんでしょ奥さん。もちろんぜんっぜん足りないです。でもあんまりすきすぎるもんですから、鬼狼のことを考えていると日常生活方面はとめども無くとっちらかっていってしまうし胆石症の発作は起きる(事実)、あっちもこっちもなにかとこまったことになるのです……とかいいつつ性懲りも無く垂れ流しですが。


でも、垂れ流しかけてふと思ったんですが。
劉燁迷のかたで鬼狼だいすきなひとの率って、実際どれくらいなんでしょうね。
ネットで『無極』の感想を漁ってみますと、メインキャラじゃないのに結果的にいちばん目立ってたとか、劉燁の演技を褒めてくださってる感想もございますが、「クレジット見てはじめてあれが劉燁だとわかってびっくりしました」みたいなかたも多いです。映画の印象込みで「微妙」ってとこに落ち着くのかなって感じもします。それだけに、たまたま辿り着いたとあるブログの管理人さんが、
「鬼狼は、みためはあんなだけどほんとにかわいいキャラだと思う」
と書かれているのを読んだときには嬉しすぎて泣きそうになりました。


そもそも彼のどこに私はこんなにもときめいてしまうのかといえば、やっぱりまずあのビジュアルがすきなの。
70年代洋楽ロック純粋培養の自分にとって鬼狼のふわふわずるずるしたグラマラスなコスチュームは「かっこいい」以外のなにものでも無いの。
そのグラマラスなコスチューム=「黒衣」というもの抜きにしては「鬼狼」というキャラクターが成立しない、というところにもぐりぐり煩悩抉られてしまうの。





さまざまな「約束」が交錯する『無極』という物語のなかでも、鬼狼の「服脱がされたら死にます」ってのがおそらく最強ではないかと。
「黒衣」という衣装が彼の生殺与奪そのすべてを掌握し、腐れ縁の情人の如く不可分にその身に寄り添うというやさしく無惨なあの在りよう。
一見すると過剰にグラマラスでありながらその実、隠蔽すべき忌まわしい(彼にしてみれば)「恥」を抱えこまされているというあのアンビバレント。
それゆえの虚勢と、それゆえの自己嫌悪という更なるアンビバレント。
ずきずきしちゃいます。


そして、鬼狼をそんなものに変えてしまった張本人。
少年のころ、「奴隷になる」という約束を傾城に踏みにじられたことで人生も人格もひん曲がってしまったこの美貌のサディスティック公爵様がいらっしゃればこそ、ずきずきも倍加するというものです。







生きながら焼かれるという凄惨な儀式を経て、奴隷として無歓の手のなかに落ちる鬼狼。
光明や傾城へ向けられるべき憎悪を、罪も無い鬼狼を貶め虐げることで晴らしているかのような無歓。
無歓と鬼狼のあいだにはどこか共依存的な空気が流れています。それはつまるところ彼らがコインの表裏でもあるような関係だから、なのかも知れません。
「生きること」を担保に無歓と交わした屈従の約束、そこから鬼狼が逃げられなかった(或いは逃げようとしなかった)理由。征服者と被征服者として出逢った彼らが共有した五年という時間。映画はもちろんそんなもの一切語りませんが、そこは秘すれば花なり秘せずば花なるべからずby世阿弥さん。私みたいな手合いは「秘する花を知る」を渇望しすぎて、日常生活方面蔑ろにして(SS書きてえ…)になっちゃったりするわけですよ。ほんとに罪なひとたち。



(以下は、本作未見のかたは自己責任でお入りください。)
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| 03:53 | 美麗的尸体。 | comments(10) | trackbacks(0) |
美麗的尸体──元祥。
「世界一美しい死体」といえばツイン・ピークスのお嬢さんですが、当ギャラリー推奨はこのひとです。







『王妃の紋章』(2006年)の皇太子・元祥。
天然がらっぱち刑事・蘇岩演った翌年に、この頽廃かつ退嬰かつ耽美なる王子様とは。
つくづく劉燁は化けものだとおもいます。


祥が最初に登場するのは、遠征から帰った父王を迎えるために、身支度をする場面。






宦官たちの手で、「皇太子」という立場に相応しいその麗容が整えられていく。
何百回と無く繰り返される儀式に倦みきった表情も隠さず、身をゆだねる祥。

ほんの一瞬で終わってしまう場面ですが、すごくすきです。


映画のはじまりから終わりまで(つまりその死まで)、祥というひとは徹底的に第三者の「為すがまま」です。
彼自身、「為す術も無い」という檻に自らを軟禁して、美しいお人形に甘んじている。死ぬよりほかに最早手立てが無いほどの無聊、倦怠、空疎。逃げだすこともかなわずなにもできずなにもせず。そういう不甲斐無い自分については彼なりに思うところもあったのだろうが思うところの片鱗すらのぞかせぬまま、おそろしい父と母の愛情と妄執に引き裂かれ彼は果てる。






この映画の感想文を渉猟していたら、ちょっとおもしろいことを書いているかたがおられました。
「皇太子(=継嗣)である祥に、どうして髭が無いのか」
というのです。

いわれてみりゃその通りです。
第二王子・元傑は髭をたくわえているのに、傑よりも年長である祥には髭が無い。
「劉燁に髭生やさせるのはビジュアル的にいかがなものか」というお話し合いがたぶんあったのだろうと推察されますがそれはおいといて。
祥は成人男子であるのに、成人男子の象徴ともいえる髭というものを持たない存在なのです。中国の後宮において、王族の男を除けば髭を持たないものは女か宦官のどちらかだろうと思います。祥はそのどちらでも無い。では「少年」と見れば良いのかというと、女の体を知っている彼はもう少年とはいえない。






余談も余談ですいませんですが。
成人男子の象徴が髭ならば、日本において過去、少年の象徴は「前髪」というものでした。
むかし奈良興福寺大乗院門跡の尋尊という貴族出身の坊さんがいて、その坊さんが寵愛した愛満丸という美しい稚児がいたんですけど、尋尊は愛満丸を少年の姿(前髪+垂髪)のままにしておきたくて、ずーっと元服をさせなかった。周囲がうるさくなって、26歳のときに泣く泣く前髪を落とさせたのですが、愛満丸は「大人の男」になった2年後、28歳で自殺してしまいます。自殺の動機はわかっていないそうです。肉体と精神の成熟にさからって人工的な「少年」でいつづけることを強いられ、一転して「大人の男」として世間にほうりだされたとき、彼のなかのどこかが、修復しようも無いほどにこわれてしまったのかも知れません。


28歳。
それは藍宇が死んだ歳でもあり。

(劉燁自身も『王妃の紋章』撮影中に28歳を迎えているのは偶然にきまっています。)


すでに「少年」ではなく、いまだ「男」でもないもの。
性的ないとなみのためだけに生かされているもの。
しかし生殖とは無縁のまま死んでゆくもの。

という点で藍宇と祥は近いところにいるともいえますが。







でも祥には、藍宇には無い、儚く繊弱ないきものだけが持つ美しさがあります。
対峙する者の嗜虐心と庇護欲を同時に誑し込むような、彼が呼吸をやめたそのときにこそ際立つ蠱惑が。



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| 02:01 | 美麗的尸体。 | comments(8) | trackbacks(0) |
美麗的尸体──霍徳能。
先日、
「美女的尸体」
という検索ワードで拙宅に辿り着いたおかたがいらっしゃいました。

うるわしい死美人を期待してわくわくしながらお運びだったろうに、「ちっ、野郎の死体かよ」と舌打ちされてお帰りだったりしたのかしら、と思うと申し訳ない気持ちで胸がいっぱいです。


座右の中国語の辞典で「美女(meinu)」を引いてみますと、「美人(meiren)」を見よ、とあります。
つまり「美しい女=美人」というふうに、すくなくともこの辞書の編纂者は考えているということだし、それはそのままいまの社会に於ける共通認識であると、言ってしまっても良いのかも知れません。
ところが、そのように「美しい女」という意味で使われている「美人(meiren)」ということばが、女では無く「美しい男」を指して使われていた時代が、かつての中国にはあったのだそうです。中国だけじゃなく日本でも、たとえば。

かしこそふなる眼ざし、こなたの御子息にしては、お心に掛さしやるな、鳶が孔雀を産んだとは此子の事、玉のやうなる美人。ちかごろ押付たる所望なれども、わたくしもらひまして聟にいたします。

(『世間胸算用』巻二/井原西鶴)


「玉のやうなる美人」てのが男の子に対する褒め言葉ってのが素敵だなあ元禄時代。

お蔭様で劉燁の形容として「美女的尸体」ってある意味ぜんぜん間違っちゃいないんだぜ、とすっかりこまった方向で認識を新たにいたす始末。身から出ました錆とは申せ、来る日も来る日もそんな美人の(あは)死に顔ばっかあつめてる2010年、そろそろ弥生も尽きようという今日このごろです。お誕生月なのに、縁起でも無いシリーズでネタにしてごめんなさいねイエたん。せめてものつぐないに(違)折り返し地点の死体目もとい四体目は笑える系のひとにしてみましたよ。


「霍徳能」ってだれだよとお思いでしょうが、『コネクテッド/保持通話』(2008年)のこのひとです。





このひと名前あったのよ奥さん、香港の公式によれば。
知りませんでした。名無しさんだと思ってました。エンドクレジットでも「國際刑警高級督察」ですし。「誘拐犯」とか「国際警察のひと」とかマドモアゼルとか姫とかお嬢様とか坊ちゃんとか呼びたい放題な歳月があまりに長くなってしまったため、いまさら本名で呼びづらいですこまったわ。ちょっと親しみやすいかんじを狙って「徳ちゃん」とか「ノンたん」などと呼んでみたらどうかな? ま、「どうかな?」って言われてもねえ……。


ところでこのかたの姓の「霍(huo)」ですが。この漢字には、

「状態が急激に変化するさま」

という意味があります。日本語でも急性の病のことを「霍乱」などと申しますね。本作で彼が負わされている役割を、姓だけで言いつくしてしまっている感。やはり漢字というのは奥が深く、おそろしいものでございます。



この『コネクテッド』という映画で、劉燁という役者をはじめてスクリーンで観てみたわけですが。
いろんな意味でへたらない素材なんだな、と感じました。
野暮臭いとことかかっこ悪いとことか未熟なとことか荒っぽいとことか無駄に過剰なとことか、あることはあるが、そんなもん全部凌駕してなお銀幕映えする勁さがあるっていうのでしょうか。基本繊細だけど繊細を笑いとばす野蛮さも持っている。技倆と野性がちょうど良いバランスだなあと思った。ちっちゃいモニターでしか芝居観たことの無い役者だったから、劇場という場に置き直すとどうなんだろうという不安も無いでは無かったけど、杞憂でしたね。パワフルな男でしたよ、はい。







「わるいひと」という場所に置かれたキャラクターは、最終的に「いいひと」が正しく機能する映画のなかではどうしたって滅びてゆかざるをえない。だから彼の死は美しいとか傷ましいとか以前に、「決められた仕事を正しい工程で効率良くきっちりこなしました」、それ以上のものでは無かった。
わるいひととしてどう死ぬかでは無く、わるいひととしてどこまで命根性汚く生きるか。そっちの見せ方のほうが私には断然おもしろかった。
年齢相応に頭が悪くて思慮が浅くて詰めが甘くてわがままでプライド異常に高くてでも中身が伴ってなくて虚勢ばっかで、そういう「だめな子」としてのあれこれが、一頭地抜いて(文字通り・笑)人間離れしたつくりものみたいなビジュアルと相俟って、愛すべきチャーミングなキャラクターになってた。悪役としてこの映画の彼の数倍良い仕事をしている先達が数多いることなんか勿論知ってはいますけど、そういうのはあと20年経ってやりゃあ良いんだもん。
なんだかんだ言っても死に顔、美人でしたし。



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| 15:54 | 美麗的尸体。 | comments(6) | trackbacks(0) |
美麗的尸体──向東。
劉燁さんは『藍宇』の特典映像のインタヴューで北野武監督がすごくすごくすきなんだと言ってた。『ソナチネ』とか、昨今ならば『アウトレイジ』みたいな北野映画に、すごくすごく出てみたいのかも知れない。そんな彼にとってこれは初の黒社会ものになるんでしょうか。『姐御〜ANEGO〜』(2005年)から、三体目は向東。





この映画は、「新感覚・香港ノワール」だそうです。
男優陣がなにしろやたらめったら豪華。渋くてかっこいいおっさんばっかです。そんなに豪華で、かつノワールを謳いながら、わかりやすいノワール的カタルシスを意識的に避けて通ってるみたいなところがあります。そこが新感覚なのでしょうか。よくわかりません。
劉燁が演ずる向東は、そんななかでも、「旧感覚ノワール」の懐かしいエモーションをど直球で感じさせてくれるキャラクターです。





大陸から香港にやってきて、ボディガードとして百徳親分(曾志偉)に雇われた向東は、広東語があんまりちゃんとしゃべれません。そのせいもあってかひどく無口。眉間にシワ寄せた気難しい仔犬顔、どこかもの言いたげな風情で、いつもすみっこでひっそりしてます。
見た目とっつきにくそうだけど、心根のとてもやさしい子。
自分を拾ってくれた親分や兄貴たち(任達華・黄秋生・方中信)には(口には出さずとも)非常な恩義を感じていて、それは親分のお嬢・小瑛(劉心悠)に対しても同じ。
みんなでごはんたべてるとき、魚を上手にたべられない小瑛のために小骨をきれいにとってあげて、「たべな」とそっとお皿を渡してあげたりする。





でかい男の子がうつむいて、無器用な箸づかいで一生懸命作業してる景色はそれだけでものがなしいものです。取りきれなかった小骨が小瑛の喉にひっかかって兄貴たちが大騒ぎして、「え……どうしよう、俺のせいだ」みたいな感じででかい体でおろおろしちゃったりするのでますますものがなしい。
でもたいそうきまじめな子なので、次にごはんたべるときにも小瑛のために魚の小骨取りに励んで





「今度はきれいに骨取ったから」みたいな感じでたべさせようとして、呆れた兄貴たちに「またやるぞ」「やめとけバカ」とか叱られて、ちょっとしょぼんとなってしまいます。(ちょうかわいい)


別のシーンで「あなた頭が悪いの?」と正面切って小瑛に訊かれてしまう向東ですが、頭が悪いんじゃなくて、自分がいまそこにいる意味をずっと考えているんだろうと思います。
自分という人間が生まれてきて、そこにいる意味。彼らと出会った意味。自分にやさしくしてくれた彼らのために、自分はなにができるか、なにをすれば良いのかということを、いつもいつも彼は、考えているんだろうと思います。


百徳が何者かに殺され、護るべき相手を護れなかった罪悪感と慚愧の念を、向東は、小瑛に向けることで晴らそうとします。親分に対しては恩義。けれど小瑛に対しては、ほのかな恋情が垣間見えます。百徳の跡目を継いで、香港最大組織の姐御として立っていこうとする小瑛と、一介のボディガードに過ぎない自分、身分違いのそんな「恋」など絶対に成就しないこともいやというほどわかっていて。





向東は小瑛のために、やすやすと己の命を投げ出してしまいます。



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| 14:02 | 美麗的尸体。 | comments(10) | trackbacks(0) |
美麗的尸体──大剛。
老上海繋がりで二体目は、『ブラッド・ブラザーズ─天堂口─』(2006年)の大剛です。


『天堂口』は、製作総指揮が呉宇森だというのでそれなりの期待をして観て、それなりの肩透かしを食らわされました。
監督の陳奕利(アレクシ・タン)は劉燁が主演したDIESELの「A Forbidden Love Story」を撮っています。あっちは妖しげで素敵でしたけど、ショートフィルム向きっていうのかしら、『天堂口』の場合、瞬発的に優れたセンスは垣間見せてもそれがほんとに一瞬だけで息切れしちゃって。その場その場で「らしい雰囲気」を出してみせるのはお上手でも、骨太のノワールを描ききるほどのぶあつい演出力は残念乍ら感じられません。これが長編初監督作だから仕方が無いのかも知れない。見目佳い男優を取り揃えたからといって、優れておもしろい映画が出来るってわけじゃ無い。お金をかけて結果そういう証明をしちゃったような、ちょっと勿体無い映画です。


事ほど左様に文句は山のようにあるのだが、とりあえず劉燁さんは美人だ。
まがいものの天国(=天堂口)に佇むダークスーツの大剛。
鮮血に彩られたその姿はまるで、死を司る御使のようです。







劉燁はここでもやっぱり、ことあるごとに流血させられています。
殴られ撃たれ、撃たれた傷口に指突っ込まれてぐりぐりされ、クリスタルの灰皿でぶっとばされ。血がとまってる暇が無い。そしてもちろん己が流した血はきっちり倍にしてお返しする主義。「目には目を」じゃなくて「目には目と歯を」。かわいい顔してとんだはねっ返りです。
最初に観たときは、劉燁の個性が「大剛」という役にはまっていない居心地悪さばかりが目につき。
じっくり観直してみたら、身丈に合わない「野心」という借り着に自分の体を合わせようと必死になっている男の子の造形として、その居心地悪さがあんがい奏効してるのかも、と感じました。







ナイトクラブ「天堂口」のオーナーで黒社会の顔役・洪哥(孫紅雷)に憧れ、常にその一挙一動を背後からみつめ、煙草の吸い方からひとの殺し方まで、律儀に洪哥の流儀をなぞってみせる大剛。
自らを狂気へ駆り立て、虚勢で糊塗した傷つきやすさと脆弱さを一分の隙無くエレガントなヴィジュアルの陰からちらちら覗かせる。
立ち位置は「悪役」であっても、過剰な暴力の裏に潜めた怯えや惑いがきっちり伝わってくるあたり、やはり劉燁は繊細な仕事をしてくれます。








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| 17:13 | 美麗的尸体。 | comments(8) | trackbacks(1) |
美麗的尸体──司徒。
死に際や死に顔がきわだって非凡な役者に弱いんです。たとえば北村一輝。


『あなたの隣に誰かいる』(2003年)という怪作ドラマのなかで北村、もとい、「不老不死の蟲の男」澤村数馬は、

●レンチで頭を殴られ海に落ちて死ぬ。
●もと妻にガソリンをぶっかけられ火を点けられて、火だるまになって死ぬ。
●竹槍が胸に突き刺さって死ぬ。
●警官隊の放つ銃弾に蜂の巣にされて死ぬ。
●短刀で刺されて「む・し・け・ら」とののしられながら死ぬ。

視聴者に明らかになっているだけで五度死にました。悪夢の棲み処にも煩悩の巣にもなりそうな、それは凄艶な死に様で、「浮遊する爬虫類」(名付け親:奥田瑛二氏)の本領発揮としかいいようの無い、見事な仕事でした。


劉燁さんの場合、死に顔が綺麗だから惚れた、ということでもありませんでした。
しかし作品を追いかけていきますと、物語の最後まで辿りつけずに亡くなられるキャラクターをいくつか演じておられます。どうも自分の無意識はここでまたしても、「死に際や死に顔がきわだって非凡な役者」を選び取っていたらしい。


というわけで発作的かつ集中強化的に、イエたんの死に顔ギャラリー*、はじめてみます。
いろいろほんとすみません関係各位。
(*「死に顔ギャラリー」とは、ベニシオ・デル・トロ氏(彼も「死に際や死に顔がきわだって非凡な役者」)の私設ファンサイト管理人様が、サイト内にひっそりつくっておられる鍵付きのお部屋の名称です。リスペクト込みで真似させていただきました。ますますすみません……。)


フィルモグラフィー順にしようかと思ったけど最初が藍宇だとかなしくなっちゃって続ける気力が萎えそうなので、『パープル・バタフライ』(2002年)の司徒から。

『パープル・バタフライ』は映画の評価はどうもかんばしくない、というか好みがはっきり分かれる作品みたいです。私の場合は「すき」に入ります。お話はわかりづらい、シナリオも難ありでテンポが良いともいえないし、妙に実験的なことをやってるのがどうも小賢しいのですが、画面構成と色味と30年代上海の空気の捉え方、そこに置かれた役者の撮り方と音楽はとてもすきです。
『藍宇』を観て、次に借りてみた劉燁作品が『小さな中国のお針子』、その次がこれだったと記憶しています。
「ああ、かわいらしい田舎の少年役がお似合いの役者さんなのね」とか思ってたらここじゃそれなりにモダンな上海ボーイで、しかも、
「自分の意思とは無関係に陰惨な事件に巻き込まれわるいひとたちによってたかっていじめられて夢ともうつつともつかぬ迷宮を彷徨する男の子」
です。それ以上俺様の煩悩を抉ってくれる設定があるでしょうかいや無い。さらに、主演女優章子怡がどうもいも臭く垢抜けないつくりをさせられてしまっている関係で、やはりここでも「ヒロイン」は劉燁が一手に担当なのでした。このフィルムに封じられた司徒=劉燁の美しさときたらなんだかもう、とんでも無いことになっています。
「ああ、綺麗……」などとうっとりするより先に本能的な嫉妬で胸がざわざわしてきます。





この映画をみて、つくづく藍宇って、劉燁という素材そのものがリアルに「垢抜けない純朴な男の子」だったわけじゃ無く、本来的に備えた毒みたいな美しさを敢えて封じてああいうふうに演じていたんだなあ、ということが身に沁みました。役者としてほんとうにおそろしいなこいつと思って、たぶん、決定的に惚れちゃったんだと思います。
死ぬよりほかにこの子には道が無い。
映画の始まりからもう、劉燁は、そういう顔をしてそこにいます。


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| 13:52 | 美麗的尸体。 | comments(9) | trackbacks(0) |
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